樋口円香ソロ「夢見鳥」感想

今回はいつかやろうかなと思っていた樋口円香のソロ曲「夢見鳥」の感想の記事です。

ガチ考察勢のような洗練された考察ができる能力も知識量もありませんので、あくまで感想、ということで。

 

 

〇夢見鳥

まず夢見鳥というタイトル。これは蝶の別名であり、由来は胡蝶の夢という故事から。

あの夢が現実なのか、この現実が誰かの夢なのか。有名なアレです。

”境界が曖昧な世界で生きる”というのは樋口円香の命題なのかもしれません。

「東洋からはるばると
わたしの庭にうつされたイチョウの葉は賢い者のこころをよろこばせる
深い意味をもっている。
これはもともと一枚の葉が二つに分かれたのでしょう?
それとも二枚の葉が互いに相手を見つけて
ひとつになったのでしょうか?

このようなことを思っているうち
わたしはこの葉の本当の意味が分かったと思いました。
あなたはわたしの歌を聴くたびにお感じになりませんか
わたしが一枚でありながら
あなたと結ばれた二ひらのはであることを・・・。

かのギンコ・ビローバの実装時に話題になったゲーテの「銀杏の葉」より。

夢と現実、一枚と二枚。それは本当は同質の存在であるのに、主観で分かたれてるだけの存在なのではないか。しかし、それを確かめる術はなく。もちろん、彼女にもわからない。

〇ヒカリの行き先

背の高いビルの間に ひっそり咲いてる花たち
なんだか寄り添うように 小さな光に照らされていた
踏み出すことで何かが 壊れてしまうこともある
綺麗なものにはきっと 棘が付いているから

ひっそり咲いている花たち、というのはノクチルのことなのは間違いないでしょう。

では、小さな光とは。最初はプロデューサーのことかと思いました。要するにプロデュースという光を浴びせるということですね。しかし、その発想が樋口円香にぐちゃぐちゃに引き裂かれてしまえばいいと言わしめた、樋口円香がプロデューサーから感じ取れてしまう傲慢さではないかと思い至る。

小さな光は、ノクチルのメンバーといる時の彼女と、その時間でしょう。青春時代という短い時間の、さらにその1ページ。その光から踏み出すことで壊れてしまうものは、当然あります。では、踏み出した先は何処なのか?それは、”背の高いビル”です。

つまり、背の高いビルは、芸能界であり、プロデューサーでもあるのです。おそらく、それらには摩天楼の光のような、小さな光ではない、眩い、とても綺麗な光がある。

しかし、樋口円香は”当たり前の”危機感を持つ。そんな綺麗なものには棘がある。本来、花にあるべきでビルにはないはずの、棘が。

そんな世界に踏み出すべきだったのか、踏み出してしまったのか。小さな光と摩天楼の光の境界が曖昧になった彼女には、もう知る術はありません。

〇世界を変えていく炎

確かなことなんてないよね 人の景色もこの気持ちも
その中で見つけた温もりだけ 心にそっと閉じ込めた…

今日がまた 訪れる それは儚い夢のよう
不思議と 高鳴る胸に 悪くない気がしたんだ

そんな曖昧な、確かなものがないと彼女が思う世界で、見つけた温かさ。”心にそっと閉じ込めた”というのが彼女らしいと思います。ギンコ・ビローバの記事で言及しましたが、彼女は”言葉に出すこと”を特別視している節があります。同時に、言葉に出さないことも同じぐらいに。”大切なものだから、口にはしない”のです。

そんな毎日でも、儚い夢のような日々でも、一歩踏み出した世界でも、不思議と高鳴る胸…心の炎を、彼女は悪くなく思っているようです。彼女が浅倉透ではない理由で、アイドルを続けている理由の一つなのかもしれないですね。

〇幸せのルール

ぼんやり眺めた空は どこまで続いてるのかな?
もう少し あと少しだけ 遠くを見たくなった
希望を持てば傷は消えて 痛みに慣れることもなくて
その中で出会える優しさなら なんてね… ふいに呟いた

シャニマスのテーマである”空”が登場。この空がアイドルの世界だとすれば、ぼんやりながらも先が気になる世界…という彼女らしいスタンスとなります。ただ、そんな希望を持てば何だって乗り越えられる!わけでもなく、希望を持って歩いたからこそ負う傷や痛みだってあるのです。だって、棘のある方向に歩みだしたのだから。ただ、だからこそ出会える優しさ…木漏れ日の光のようなしあわせ~幸福な存在があるのならば…?

それを”なんてね”と曖昧化させる言葉で示す。しかしそれは呟いているので、紛れもなく樋口円香にとって言葉に出すべき、漏らしてしまう程の所感でもあるのです。

ギンコ・ビローバでも”たぶんね”という言葉が重要なコミュがありましたが、言葉を曖昧にさせる、この手の言葉は、樋口円香のセリフにおいて重要な要素なのかもしれないですね。

〇夢咲きアフターアイドル

今日がまた 過ぎてゆく オレンジ色に染まる街
どうして? 見慣れたはずの 夕陽がやけに眩しい

何ができるの? この小さな羽で飛べるの?
わからない それでも 信じてみたい

重ねた 手のひらに 今さら言葉はいらない
帰ろう 私の場所へ 暖かい陽だまりへと

きみといる陽だまりへと

凛世「夕日でございます…」円香「毎日毎日飽きもせずね 昇って沈む」

凛世とのホーム会話より。カラカラカラのSSRでも夕日を眺めていましたし、彼女にとって夕日とは繰り返す毎日の象徴であり、それでも毎日見てしまう存在なのかもしれません。そんな見慣れた夕日の光が、眩しい。それは彼女自身の変化なのでしょうか、それとも彼女を取り巻く世界の変化なのでしょうか。それを知る術を、彼女は持ちません。

”小さな羽”。wing、featherのCDタイトルを出すまでもなく、羽はシャニマスにおいて重要な要素です。空がアイドルの世界である以上は翼や羽はそこへ向かう可能性です。翼ではなく、羽としたのは、これがノクチルではなく、樋口円香自身の可能性へのスタンスだからでしょう。

さて、最後。重ねた手のひらは誰のものなのか?帰る”私の場所”とは?”きみ”とは?

一つ言えることは…プレイヤー(プロデューサー)としては複雑ですが、”私の場所”や”きみ”はプロデューサーの存在ではないだろうな、ということです。最初に花を照らしていた小さな光も、樋口円香が踏み出した先で出会えた優しさも、暖かい陽だまりではあります。しかし、帰ろうと言っている以上は、元居た場所である前者のことでしょう。

いつか、ノクチルや樋口円香というアイドルの日没が来た時でも。”きみ”という曖昧な存在がいる、あの青春に帰ることができるのならば。アイドルも楽しい夢であったと、帰ったその先もまた、楽しい夢になるのかもしれない。そんな、彼女の終点をソロ曲の最後に持ってきたのかもしれません。

 

〇最後に

ギンコ・ビローバのコミュ読んで。

ここまでお読みいただきありがとうございました。