「クルリウタ」ドラマCD考察

その予想以上の凄惨な内容と、救いのない結末で話題となっているTC第3弾「クルリウタ」のドラマCDを聴いたので、考察というか思ったことをつらつらと。ネタバレありなので聴いてない方はご注意を。

 

〇「クルリウタ」は誰視点の歌なのか?

僕は最初この歌は千鶴が演ずる女主人の視点で、美しい蝶の中でうごめく蜘蛛に苦しむ心情を唄った歌だと思っていました。それも全くの間違いないとは思いますが、ドラマCDで特大の重要人物になった女主人の娘の視点の歌なのではないかと。

 

〇「女主人の娘」

クルリウタのドラマCDは彼女を中心に動いていきます。そう、「女主人の娘」が誰であろうと最初から最後まで。

・女主人の娘は、女主人の言うことをきかねばならない。

・女主人の娘は、女主人に隠し事をしてはならない。

・守れない場合、「女主人の娘」は解任となり、メイドの志保に処理される。

・空席となった場合、遭難者等の人間がいれば一人が選出される。

これがこの役割のルールです。このドラマCDは伊織が処理され、茜と交代する一連の流れでした。

これを踏まえてクルリウタの一番の歌詞を見ると、自身に巣食う邪悪を嘆く歌ではなく、この世の道理から逸脱したとしても、処理されたくないために凶行を犯す心情を唄った歌になるのです。

 

〇ヨモツヘグリ

まず言ってしまうと、女主人はもうこの世のものではないですし、志保や伊織も同様で、孤島はそういうテクスチャを貼った「異界」です。

まず茜たちに出会った志保が『「人が」来るのは久々」と言います。本来、人が立ち寄るべき場所ではないところに人がいるということです。ただ、「人」、この世のものだと認識はしているわけです。志保はもうこの世のものではありませんが、狂気に侵されているとはいえば、半分は正気を保っているといえるでしょう。

さらに、見た感じよりかなり広い島であることが歌織先生との探索で明らかになっていますが、それもそのはず異界であるので、そういうテクスチャがあるだけで、実際は集落にたどり着けるかどうかも怪しいですし、ボートで外洋に出ることも不可能でしょう。本土からの定期便もそういうNPCがあるだけで、何も運んではこないし、連れて行ってくれることもありません。

「異界」にはルールが基本的に存在します。この世にこの世の法則があるように、異界という一つの世界にも法則があるのです。

一つ。この異界の絶対命令権は女主人にある。

一つ。その絶対命令権を行使と維持には「食事」が必要である。

一つ。女主人には強度の認識障害がかかっている。

最初のは異界の主が女主人なので、女主人の思いのままであるということ。

次は、その異界への取り込みの分水嶺が「食事」であるということ。おそらく、異界側に踏み込んだ(律子のような「見てしまった」も含まれる)者の血肉を使用するという付帯条件もあるということ。

最後は、女主人は、特に自分の娘には強度の認識障害がかかっているということ。だから「娘」が志保から茜に代わったとことで延々と同じことを繰り返すのです。

 

〇メイドの志保はどういう存在か?

彼女はおそらく女主人千鶴の「本当の娘」です。

この繰り返す「娘」のループの始まり、旦那と娘を失った女主人が狂気の果てに異界を作り、認識障害に陥った千鶴は志保を娘と認識できず、代わりに彼女を館で働く娘と認識し、「メイド」の役割を付与し、異界の一部としたのです。

志保が強い義務感を持って凶行を行っているのも、もし自分がメイドの役割さえ仕損じて処理されたら、後に残る千鶴という母親が残すだろうさらなる地獄を作らないため、娘としての最後の責任感として犠牲者を増やし続けている・・・もう一度言います、「クルリウタ」は「女主人の娘の歌」なのです。

 

〇オレンジのガーベラ

女主人の娘の伊織が訪れていた墓場。女主人にも秘密のこの場所にある無数の墓標。そこに添えられていた花は、「オレンジのガーベラ」の花言葉「我慢強さ」。

女主人の娘を強要された娘達の我慢強さの果てに散っていった者への手向け・・

なんてものではありません。ガーベラには別に薔薇のような「怖い花言葉」は全くないのです。「忍耐強く前に進んでいく我慢強さ」という意味。そこに眠るのが先代の娘にしろ、犠牲者にしろ、ちぐはぐな印象を受けます。

そう、伊織演じる女主人の娘はこの袋小路の状況にも関わらず、自分が我慢すればいつか報われる時が来ると信じているのです。客観的にみても、物語の登場人物の志保からしても、この異界に取り込まれた時点でどうしようもないことがわかるのに、です。

それは一輪の花のような希望なのか。

それは一輪の花のような孤独な狂気なのか。

それは一輪の花に感じる少しの安らぎなのか。

個人的にはこの墓地のシーンがクルリウタで最も重要なシーンだと思います。解釈も多々ありましょうが、自分は「哀れな狂気の残り香」のように感じました。

 

〇脱出は可能だったのか

プロローグとエピローグのラジオを聴いていると、伊織が囚われた時と茜がそうなった時では、かなりの時間が空いていることがわかります。この異界の時間は外界と比較して静止しているに等しいのでしょう。

電波の話が劇中に登場していますが、この異界、電波は通じているのです。おそらく送信は不可能で受信は可能という代物で、そもそも「電波塔」さえあるのかわかりません。

そのラジオでは伊織も茜達も「行方不明」とされていることがわかります。要するに死んでいる扱いです。

ここで仮定の話をしましょう。

電波が通じる→外界への接点がある、通り道がどこかにあるとして、

・「食事」を取らずにヨモツヘグリを回避する

・異界に深入りしない

を徹底して館から脱出、追っ手の志保も回避して外界への繋がりである「電波塔」に到達したとしましょう。そこで彼女達は何を見るのか?

ふたつ。

一つ、彼女達が外界でまだ生きている場合は脱出の扉。

一つ、彼女達が既に死んでいる場合は自分たちは既にこの世のものではないことを示す事実。

個人的には後者かと思います。つまり孤島に来た時点で彼女は既に死んでいて、

本来行くべきだった天国への道から、この世とあの世の境界線上に存在するこの孤島に「取り込まれた」。彼女達の魂はもうどこにも行けない。だから、墓もこの孤島にあるのです。

 

とまあ、こんな感じで考えをまとめていると、本当に救いのない話ですね・・・。

まあ、ホラーとしては割合ある救いのなさなのですが、アイマスのドラマCDでこれをやるのは確かに画期的(?)ではありました。

というか、サスペンスは?どこ行った?

個人的にはクローズドサークルの連続殺人だと思っていたので、ここまでホラーに捉えられるような方向に傾くとは思いませんでした。

 

では、最後に。このドラマCDに出演している島原エレナは太陽みたいな明るさ、茜に見せたような優しさでアイドルとして輝いている娘です。気になった方は是非彼女をプロデュースしてみてはいかかでしょうか。

 

モバマス・リフレッシュルーム”Let's speak English♪♪"全文訳

リフレッシュルームで私の担当のメアリー・コクランが出てきて、しかもバリバリ英語話すので嬉しくなって全文訳をしてみました。意訳、誤訳はあるかもだけど、ご勘弁。

 

志希「あー、終わったー!今年のお仕事はおしまい♪」

ケイト「ええ(Good news=朗報だが、肯定的な相槌として処理)!たくさんの新年の番組で最近忙しかったデス」

メアリー「でもそのおかげで、こんなに可愛い着物を着れたワ♪」「それで、どうかしら?似合っている?(flatter=物が主語で、よく見せるの意。ちなみに英検2級レベルの単語)」

ケイト「ええ、とっても!とても似合ってるワ!」

志希「着物もだけど匂いもいいね♪これは多分・・・桜かな?

メアリー「Exactlly(その通りでございます)♪魅力的な女性は香水を使うものでショ?」

志希「そうだね。・・・それこそケイトみたいにね♪」「ケイトも香水をつけているの?とっても良い匂いがする!」

ケイト「いいえ、香水ではなくて。このカメリア(椿のこと)ですネ」

メアリー「ということは、本物の花?とても美しいワ!」

ケイト「ありがトウ♪ところで・・・裕子はどこに?」

裕子「みなさーん!」

裕子「裕子です!イエーイ!」

メアリー「裕子、遅いわね。何かあったノ?」

裕子「はい、大きな出来事がありました!そこでセールをやっていて、沢山のお餅が売っていたんです!」

ケイト「ああ、なるほど。お餅のバーゲンセールを見つけたのですネ?」

裕子「その通り!マイサイキック・デスティニー!(翻訳不能)とてもイッパーイ買いました!」

志希「それで、沢山お餅を買ったと・・・それで、その手のものは・・・?」

裕子「鏡餅です!私のサイキックを封じ込めました!プロデューサーにあげるつもりです!」

メアリー「それはいいわネ!日本のお餅は私も大好きよ」

ケイト「私もデス。日本の文化はとても興味深いですネ!」

「例えば、大晦日に鐘をつくこととか・・・あと日本料理も!(all the special dishes=おせち料理の可能性もあります)」

志希「うん、異なる文化の比較は面白いよね~。その起源を追うのも」

裕子「うん、うん、うん!とても面白いですよね!」

志希「ところで、ケイトはお休みの間は何するの?イギリスに帰るのかな?」

ケイト「いいえ、日本にいまス。実は、家族が日本に来るんデス♪」

メアリー「本当!?良かったわネ、ケイト♪」

ケイト「ありがとう、メアリー。日本の新年を一緒に楽しみたいと思いまス♪」「私の家族は外国の文化が好きで、例えば、時々ロンドンの中華街に一緒に行ったりするんですヨ」

裕子「おお、中華街!とても面白い!ドンチャン、ドンチャン(翻訳不可)」

志希「そういうので面白い話といえば・・・留学中に見た大きな花火もかなー」

メアリー「私の故郷にもあったワ!大晦日は毎年花火とパーティーがあったのヨ」「パパとママが時々連れて行ってくれたワ。ちょっと懐かしいわネ♪」

ケイト「メアリーの国(region=地域)では他に風習はあったのですカ?」

メアリー「ええ!12時ちょうどに隣の人キスするのヨ。私もやったことあるワ♪」

裕子「キ、キキ、キス!?メアリーちゃんのすごいスクープです!あわわわわ・・・!」

メアリー「もちろんよ、いつもパパやママ、シスターとしてたけどネ♪」

志希「いいねえ、日本ではしないのかしら?」

ケイト「・・・あ、すいません!空港に行かないト!もうすぐ家族が到着するのデス」

メアリー「それじゃ、私も行こうかしラ。私の着物姿の写真を家族と話すノ!(famillyとはないが、文脈的に対象は家族と思われる)」

志希「私も行かなきゃ。今年中にやっておきたい実験が何個かあるんだよね♪」

裕子「私もです!プロデューサーを探します!・・・はっ!これは日本語!」

ケイト「裕子、あともう少しデスよ♪みんなと話せて良かったワ」

メアリー「次会うのは来年かしら?ちょっと寂しいわネ・・・」

裕子「問題ありません!新年はあっという間に来ますよ!ああっ、これも日本語だ~っ!!」

志希「まーまー、最後までノっていって♪じゃあ・・・お元気で、風邪を引かないようにね!」

全員「よいお年を♪」

 

英語を話すメアリー・コクランいいよね

残された手札がジョーカーならば、ゲームは上がれない 〜映画「ジョーカー」感想〜

" 酒が人をアカンようにするのではなく、その人が元々アカン人だというのを酒が暴く"


いつか聞いた格言だ。切っ掛けそのものに善悪はなく、切っ掛けによって現れるものが悪性であるのだ。では、「元々」とは?誰しもが悪性を抱えている。悪性がない人間がいるとするならば、その存在そのものが悪性だ。切っ掛けはそこら中に転がっている。個人と社会、富む者と貧する者、才能がある者とない者、運が良い者もない者、出会いに恵まれていた者と恵まれなかった者。どの天秤が崩れても、どれもが欠けても、人は誰しも"彼"に陥る。鍛え上げた肉体もなく、目からビームも出ず、古代の英雄の血を引くものでもない。ただ我慢することをやめた、一人の男に。


映画「ジョーカー」を見た。公開前から色々と騒がれ、あのダークナイトに並ぶ傑物が出たと話題の映画を。言ってしまえば、一人の冴えない男が不運と生まれの不幸を知り、追い詰められ、誰からも助けてもらえず、我慢をやめた。それだけの映画だ。

ただ、"それだけ"なのが、我々は彼の着地点を知ってしまってるが故に、どうそこに行き着くかを期待してしまう。ピエロを見るかのように。そこを丹念に、アーサーの手札をどんどん奪っていく。仕事、母親、コメディアンへの憧れ。彼を繋ぎとめていた手札はどんどん捨て札となる。そして最後に残ったのがジョーカーのカード。切り札ではあるが、それが残ってしまうと、もう上がりはない。ただ、それが人生だ。スヌーピーも言っていただろう、"配られたカードで勝負するしかない"って。そのカードが捨て札とジョーカーしかなかった。"それだけ"だ。


さて、映画の話であるが、現代社会がどうとかは置いといて、一人のヴィランの誕生の物語として、これだけの映画を提供した、というのは確かにアメコミ映画史上に残ることである(ニワカの私が言うのはおこがましいかもしれないが)。逆に言えば、ジョーカーはやっとダークナイトから解放されて、"今後数年のジョーカー像と引き換えに"新たなジョーカーを打ち立てることに成功した。そういう話なので、バットマンの過去作を漁る必要はないが、ゴッサムシティやブルースという少年が気になったら近年のバットマン作品を見てみるのも良いかもしれない。


最初に悪性の話をしたが、感情移入をさせないためか、問題提起のためか、アーサー自体に問題があるようにしている。彼の手札からジョーカーが浮上したのは、偶々手に入れた拳銃の存在だが、それこそ最初の酒の格言に通じる。彼は善人ではない。我慢しているだけだ。その蓋を、拳銃という"力"がまずこじ開けた。それから拳銃に関わるミスで仕事を失い、拳銃で初めての殺人を犯す。アーサーの段階が進むたびに、たった一丁の拳銃がその存在を強く主張するのだ。……話はそれるが、天気の子の拳銃の使い方がド下手だったために、たった一丁の拳銃の重みを、治安最悪のゴッサムシティで、銃社会アメリカで表現できるのかと驚いたのだ。


劇中ではこれでもかというぐらい、"病的な"笑いが登場する。では、「彼」が、本当に笑った時はいつか?それは最後にあるコメディアンを撃ち殺した時だ。彼の人生に初めて愉快なオチがついた瞬間。それから彼は、本当の笑いが混ざるようになった。あの瞬間、アーサーとジョーカーの垣根は消え、二人は溶け合ったのだと思う。そして最後、パトカーの上で、熱狂した民衆に囲まれて、彼はアーサーではなく、完全にジョーカーとして目覚めたのだ。"この口の傷の話"が結実した、あの瞬間のための映画といっても過言ではない。


そしてラストシーンは本当に感心した。病棟で人殺しをしたジョーカーが職員に追いかけられるシーン。続く廊下の向こうのT字路が"まるでコマ割りのように"。愉快に職員とジョーカーが追いかけっこ。アメコミだ。これはアメコミなんだ。そう、我々をまるでアメコミの枠を超えた映画から、原点に回帰させたのだ。そして、The END。コメディはオチが大事だが、これ以上ないオチだったと思う。


いや、長くなった。コメディアンといえばウォッチメンあいつだよねとか書きたいが、まあいいだろう。別世界のジョーカーが戦ってるし。ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。ジョーカー、面白い映画とは言い難いですが、傑作ですよ。




「再演」の結実 〜ミリオンライブSSA公演2日目感想〜

所恵美役の藤井ゆきよさんは最後のコメントでこう仰いました。


"これは個人戦ではなく団体戦"


"トチっても仲間が助けてくれる"


僕が今回の再演を見て感じたことを、ゆきよさんが簡潔かつ全部言ってくれました。


団体戦なのでソロ曲はありません。ただ、イルミネーションが可能なユニットが二つもあり、そのユニットが再演で集う。なら、例外としてソロ曲を歌おう。ただし、そのユニットの皆で。フェスタ・イルミネーションを。フェスタとはお祭りの意味で、まさに巡り合わせの曲と言える。ちゃんとまつり姫にも花を持たせる気遣いも忘れない。


トチっても、とゆきよさんは仰っていましたが、彼女が演じた夜想令嬢は、SSAという舞台を得て、そして再演という機会を得て、さらなる進化を遂げていました。トチるだなんてとんでもない、そう思える程の。


2日目はSSAという舞台を、特に地方公演にはなかった花道を上手く利用していたと思う。夜想令嬢の昏い旅路を行く朋花を上手く表現して、カメラワークもバッチリで、これはLVでちゃんと見れて良かったなと思った。花道をアンドロイドらしく機械的に歩くEscape、仲良く手を繋ぐシャルシャロ、元気よくかける未来。再演の舞台、SSAだからこそ表現できたことだ。


1人も手放さない。それはこのミリオンライブの信条の一つだ。それはゲームの中で、機会均等を目指すものだと思っていた。しかし、この団体戦を完璧に完遂した今、それだけではない。手放さないどころか、全員が硬く手を握り合って、一つの大きな目標を完遂させることでもあったのだ。それはゲームコンテンツのライブとかそういうの飛び越えて、人間的に美しい。昨日も書いたが、声優さんには脱帽して頭が下がるばかりである。


ただ、そんな声優さんが我々あってこそと繰り返し、プロデュースお願いしますという。商業的なこととかは置いといて、素直に応援したくなる。その真っ直ぐな思いまで斜に構えたくはない。


話が逸れた気がする。とにかく、ミリオンライブのゲームを越えた素晴らしさを実感し、応援を続けたくなる2日間だった。では、締めの言葉として担当の島原エレナだけではなく、ミリオンライブ全てにこれを送りたい。


"出会ってくれて、ありがとう"


「再演」の意味 〜ミリオンライブ SSA公演1日目感想〜

ミリオンライブ 6thのHPには、こうある。

"単独タイプ別で地方を巡ったユニットたちの再演が決定!"

そう、SSA公演は再演、Reactなのだ。我々ファンが望んだ再集合だけではなく、演者さんの方々にとっても、「もう一度」だった。

セトリ自体は地方ツアー時をほとんど踏襲していた。一部のユニットを除き、カバー曲も同じであった。もちろん、地方ツアー時は出会うことのなかった夢の共演、アライブファクター等のサプライズも用意されており、flyersも披露され、とても満足のいくライブであった。しかし、セトリを踏襲した意味気付いたのは、自分の担当である島原エレナを演じる角元明日香さんの言葉だった。

気付いてはいたのだ。Cleaskyがカバーする「笑って」の時の、角元さんの演技が、CleaskyのドラマCD内に登場する島原エレナではなく、本来の島原エレナに寄せていたことに。特に笑うところは、そのまんまアイドルの島原エレナであったと言っていい。そんな角元さんが2回目ということで、プレッシャーからある程度解放され、自由に演じることにしたとコメントした時に、この公演の意味に気付いたのだ。 

再演は、何も同じ事を繰り返すのではない。1回目があった以上、ミリオンの声優の方々はそれぞれに思ったことがあり、本来ならいつ来るかわからない次の歌唱の時の宿題があったのだ。このSpecialな公演は、その宿題を果たす機会だったのだ。我々が望み、アイドルを演じる声優さんかこれに応える。これがアイドルマスターだった。

個人的にジュリア役の愛美さんが、飄々と(?)語ってはいたが、そのプレッシャーがとても大きく、しかし静香役の田所あずざさんのおかげで自由になれたと語っていたことが驚きだった。同時に今回はアコースティックをしなかった理由もわかった。何もプレッシャーだけではない。Jelly pop beansはサプライズ返しという再演を見せたし、和太鼓やタップダンスの方々との連携も発展させていた。

ちなみに一番私の涙腺に来たのは、絶対に泣く印象があった、戸田めぐみさんが最後まで涙を我慢したことである。

今回の公演は、もちろん尊みもあり、素晴らしさもあり、最高もあった。しかし思うに、それはプロフェッショナルの方々がプロフェッショナルの仕事を完遂した、当然の結果である。ミリオンライブの声優さんへの尊敬の念が深まるライブだった。そして彼女達の同僚を超えた仲間という関係に、畏敬の念を覚えた。

明日は2日目。明日はどんな"再演"を見せてくれるのだろう。楽しみである。

最後に。野々原茜役の小笠原早紀さんの復帰に感謝を。貴女のfruity loveが聴けて良かった。貴女なしでは成立しない再演でした。

あの時プレイした美少女ゲームはこんなに「綺麗」だったのか? ~「天気の子」感想~

新作『天気の子』は、天候の調和が狂っていく時代に、運命に翻弄される少年と少女が自らの生き方を「選択」するストーリー。 映画『天気の子』公式サイトより

 ゼロ年代美少女ゲームの残り香のようなストーリーだと聞いた。葉鍵やロミオなどの、美少女ゲーム全盛期にリアルタイムで触れた世代ならば、PS2ドリームキャストで発売された、コンシューマ美少女ゲームをやっていた世代ならば、胸を打つものがある内容だと聞いた。だから、見に行きました。「天気の子」。

 

確かに主人公の帆高と、ヒロインの陽菜の前には数々の「選択肢」が現れ、

バーサーカーイリヤに殺されるエンド並に多そうな「帆高実家帰還エンド」や

ONEの「右に行く」「左に行く」並にノーヒントな上に、どちらでもよさそうなクイックセーブ必須の「銃を撃つ」「銃を撃たない」という選択肢、

2周目でいきなり「夏美の就活を手伝う」とかの選択肢が現れ、未読スキップが止まってビックリしそうな夏美ルート、

FDでファンの声に応えて追加された上に一番万事解決してしまう凪ルート、

等々、事前情報もあって、色々と見えましたよ。確かに美少女ゲームチックといえば、まさにその通りでした。そしてこの記事を書くために公式サイトを覗いたら、それらの美少女ゲームメソッドがポピュラライズされた文言が出てきたわけです。で、思わず引用したわけです。

映像作品としては見事でした。さすがと言うべき美麗な東京の景観と雨の表現が、素敵なBGMを伴って110分流された。それが、「天気の子」です。

それは、楽しくて美しくはあったが綺麗ではない記憶が、さも綺麗な顔して再演される居心地の悪い、気味の悪い時間でした。

自分にとって美少女ゲームとは後ろめたい記憶でもありました。決して人に言うような趣味ではなかったし、親にも何回もそんなゲームやめろと言われました。それでもやってた。ゲームをポンポン買えない学生時代に、手あたり次第買ってやってた。

美少女ゲームは、そのほとんどが「学園モノ」、つまり青春モノです。作中の帆高のような、とにかく真っ直ぐで、キラキラしていて、甘酸っぱい恋。当人以外には、作中の刑事のように舌打ちの一つでもしたくなるような恋。

そう、当人以外では舌打ちしたくなるような恋故に、これは昔やった美少女ゲームだという話もわかるのです。でも、自分はもうそれは遺産のような記憶で、既に舌打ちしたくなる刑事側になっていた。須賀さんのような「元主人公」でもなく、外縁にいるキャラクターの方に心情が寄る歳なのです。

自分は、美少女ゲームでは主人公名を自分の名前に変える(それでヒロインの音声がそこだけ無音になっても)ぐらいには、自己投影をする派でした。そんな自分は大学生の終わりくらいに、「アマガミ」を最後に、学園モノの主人公に全く自己投影できなくなり、あれほどやっていたギャルゲーとラノベから離れていきました。

そんな葛藤を須賀さんは担当していました。「大人になると物事の優先順位を変えられなくなる」と言ってたり、水や立場や心に囚われて、しかし帆高の願いに涙を流す(この涙、僕は憧憬だと思ってますが、解釈は人によるでしょう)須賀さんは間違いなく一番自己投影できるキャラでした。が、そんな彼も帆高のために公務執行妨害をし、お縄についてしまった。まあ帆高のためのお話なので仕方ないですが、須賀さんが遠くに行ってしまったようで少し寂しかった。

さて、帆高と陽菜の運命が世界(といっても東京ですが)の運命と直結しているという意味では、「天気の子」は確かにセカイ系と呼べるのかもしれません。ただ、個人的にはこれは決してセカイ系ではないんですよね。確かにセカイ系たる要件は満たしているのですが、セカイ系を名乗るには、余りにも世界の強度が強過ぎた。

オチの話になってしまいますが、帆高と陽菜が選んだ選択肢故に、東京の半分が3年かけて水没します。レインボーブリッジの橋げた部分が水没するレベルです。が、それでも江戸っ子はめげなかった!!作中のおばあちゃんは「江戸って昔はこんなもんだった、戻っただけよ」と達観してるし、水没した各種交通機関の代わりに水上バスブイブイ走り、桜も咲いてお花見を楽しみにする人もいる。須賀さんも「まあ何とかなってるし、気にすんなよ」とか言ってる。首都機能?経済的損失?そこはセカイ系の例に倣って社会領域を排除・・・単純に尺的に不要だからかもしれないが・・・したのでカット。そして再会した帆高と陽菜。帆高が「大丈夫!」と叫ぶ。タイトルドーン。いやあ、若いねえ・・・とは思ったが、共感や感動は特になかった。新しい日常として処理される「セカイ」は、個人的にはセカイ系の世界とは繋がらないのだ。

そもそも翻弄される運命も天候を左右する謎の存在よりも穂高がたまたま拾った銃とその発砲に依存しており、天候を左右する存在、それへの人柱となる人間の存在もムーに掲載されるオカルトレベルから脱することなく、陽菜の人柱への覚醒も自分で見聞きしたけではなく、人から聞いてという存在感。銃は天気より強し。

さて、銃といえば、ヒロインの陽菜について。お金に困って売春にまで手を染めそうになる、帆高のようなラッキーケースは想定できない状況で、それを邪魔した帆高にキレるのはまあわかるのですが、その帆高が銃をいきなり発砲するような奴としかわからない段階で、「ちょっと言い過ぎた・・・ごめんね」みたいな感じで接してきた上に、二人して銃の存在をコロっと忘れて話を進めていくのは、どうかと思った。日本の東京を舞台にするならば、「拳銃」という存在は、天候を操る謎の存在より重い。それとも、東京って拳銃ぐらい当たり前なのか?東京って怖い場所だなあ・・・。帆高曰く、オモチャと思ってお守りとして持っていた、とのことだが・・・いや、苦しくないかな、それは。実弾がすぐに発射可能な銃とかんしゃく玉鉄砲との違いはさすがに、ね。

そしてヒロインの陽菜自身が何というか、「天気の子」だからキャラクターどうより舞台装置感が強過ぎて、キャラクターとして評価できないという。夏美さんやスーパーショタこと弟の凪のようなキャラクターとしての役割は果たしていたと思う。

と、まあ色々書き連ねてみたが、批判的になってしまった。いや、恋人や友達を気軽に行くには良い映画だと思いますよ。「君の名は」よりは。

その「君の名は」で生乳を飲ませるような新海監督が成分調整された牛乳になった感じがしてましたが、今作はさらに飲みやすい牛乳になったかと思います。

最後に。繰り返しになりますが、これは確かにPS2のギャルゲーで見たようなシナリオだが、こんな綺麗な存在ではなかった。少なくとも、もっとアングラで、ドロドロとしていて。例え劇場版であっても、夏休み中の女子学生と肩を並べて見るような、そんな存在では、僕の中ではないよ、美少女ゲームは。

【追記】

そういえば3年間天候が変わらなかった、ということは少なくとも関東圏で「天気の子」は発生しなかったということになる。ある日、東京の天候が回復した時に。事実を知る帆高と陽菜は、犠牲になった「天気の子」に何を思うのだろうか。

担当のSSRが来た日

7月26日15時。デレステにおいてSSRメアリー・コクランがピックアップされたガチャが終了した。だからというわけではないが、彼女のSSRについて記事を書こうと思う。

 

7月22日月曜日。ローテーション的にはデレステのガチャ更新にパッションが含まれることは知っていたが、正直期待はしていなかった。二人実装が本格的になってきたとはいえ、メアリーの順番はもっと後、もしかすると今年中には来ずに、トリに近いぐらいになるかもなとさえ思っていた。なので、15時の更新は確認もしていなかった。

夜。仕事を終え、ガチャ更新あったなと何気なくデレステを開く。なるほど、関ちゃんか。ということは、パッションもボイスがある子かな・・・と思っていると、目に飛び込んできたのは、プールサイドで笑う、メアリー。「ヒッ」と息が抜ける音がした。それは「恐れ」だったのかもしれない。ついに来たのだ、その時が。彼女の最初で最後であろうSSRが。

何故このような反応になったか。それは物事をネガティブに考える癖のある自分が辿り着いた一つの考えがあったからだ。それは、「SSRデレステにおける、そのアイドルの墓標となる」という考え。デレマスの環境は厳しい。いちいち例や状況を上げたりはしないが、SSR1枚を与えられるかわからないアイドルがいる世界だ。そういうアイドルにSSRが与えられる時、それは自ずとデレステ世界における、そのアイドルの結論、終着点、完成となる。たった1着の、そのアイドルしか着用できない衣装と共に。それ以上はない。そのアイドルが残した軌跡と結果が刻まれたもの。それは墓標というものだろう。

しかし、メアリー・コクランは担当だ。それが墓標だろうが何だろうが、向き合う覚悟は決めていたし、どんなセリフが、コミュが、衣装が来ようとも、受け止めて愛してあげるぐらいしか自分にはできない。それに、やはり嬉しかったのだ。爆発的な、叫ぶような喜びではない。震えるような、噛み締めるような喜びだったが、嬉しかったのだ。

天井に到達した10連で、お迎えする。ピックアップ特殊演出に浮かぶ、メアリーのサイン。彼女らしい、流麗なアルファベットのサイン。動画でも残したが、この瞬間は忘れないようにしようと思った。一度きりしかない瞬間で、祝福すべき瞬間だったから。

カード名は「レットイットキュート!」。let it cute.

ポイントはherではなくitだということ。herだとメアリー自身で確定するが、itだと例えば有名なlet it beのように、itを何と取るかで解釈が変わる、つまり何が「可愛くなる」かはこちらに委ねている。英語の妙。アメリカ人のメアリーらしいカード名だと思う。

衣装も、自分は初期Rのリファインかなと思っていたら、アメリカ要素を全面に出しつつ、それにアイドルがくわれないまとまったデザインであった。言葉で語るより見てもらった方が早いので、スクショとかを見てもらえると有難い。

特筆すべきはコミュである。特に親愛度コミュ。これはデレステにおいて、そのアイドルとカードの方向性を端的に表すコミュである。あの短文のセリフに、下手なイベントコミュ全話以上の解釈の余地と、情報が敷かれている。故に、ここが素晴らしい出来だったのは本当に嬉しかった。

どれぐらい嬉しかったかというと、前述の墓標だの何だの思考が吹っ飛び、メアリーとまた歩み続けられる未来が見え、そして。

「彼女の担当で本当に良かった」

と思えたぐらい。

このブログにも記事があるが、自分は一回、彼女から逃げ、目を背けてしまった。そうしながら、未練がましいことばかりしていた。周りに励まされ、恥ずかしながら戻ってきた。そんな暗い記憶を持つ自分の前に、

”アタシから目を離さないで”

”どんなアタシでも、きっとダーリンに見せてあげるからネ”

”・・・大好きよ、マイダーリン”

と言ってくれる彼女は、墓標なんかじゃない。新しい道であり、未来であり、福音だった。

もう少し頑張ろうと思った。メアリーがいる世界は厳しい世界だが、まだ彼女は消えたわけではない。自分も目を離したわけではない。

彼女に関わる日々が、足跡になっていくのだろう。それがすぐ消えてしまっても、足跡は確かに刻まれたのだ。

最後に、この言葉を持って記事を〆させていただく。

 

「出会ってくれて、ありがとう」