少年よ、神話になれ ~シン・エヴァンゲリオン感想~

仕事が早めに終わったのと、不慮のネタバレを食らう前に見ておこうと、シン・エヴァンゲリオン見に行ってきました。その感想になります。

 

まず、今作は「ロボットアニメ」とすれば新劇場版において過去最低となります。しかし、「エヴァンゲリオンの最終作」とすれば及第点といった作品です。

ロボットアニメとしての面白さをほとんど(完全にではない)放棄し、とにかく「エヴァンゲリオン」というTVアニメから新劇場版まで綿々と続く作品に終止符を打つための、エヴァンゲリオンという作品を追いかけてきた(言い方を変えれば囚われた)人々を解放するための作品です。

少し前、「大人になれよ」という言葉で炎上した作品がありましたが、今作は「大人になったんだよ」とこちらに優しく投げかけてくれる作品です。

劇中のシンジ君も「どうしてみんな自分にこんなに優しいんだ」と嗚咽交じりに吐き出していましたが、今作はともかく優しさが根底に存在していたように感じます。人の善意とも言うべきでしょうか。他者への無理解、不審、恐怖、押し付け。エヴァンゲリオンの世界、というか碇シンジの世界はそれらに満ちていて、そこからどうにかして脱出しようとして、結局アスカとさえそれらを解消できなかったのが、TVアニメと劇場版、そして新劇場版Qでした。

 

自分がしてしまったことは、自分で落とし前をつける。

劇中で強調されていたように、大人になるということはどういうことかという点で、これが示されます。自分がしてしまったことに嘆くばかりのQを終えた後のシンジ。そんなシンジが自分がしてしまったこと(ニアサード)の落とし前をつけるのです。とはいえ、14歳のシンジにそれを押し付けるのは…と思うのですが、そこでニアサードの世界を生き残ったトウジら旧友の存在がそれを補完します。ニアサード後の世界の、悪夢のような世界で生き残るためにトウジ達は子供ではいられなかった、大人になるしかなかった。人には言えないようなこともした。その落とし前、贖罪のために、トウジらは生存者のコミュニティで頑張って生きていた。落とし前をつけるために、シンジも大人にならなければならない…ただ、シンジは既にエヴァに乗って世界のため十分に戦った。シンジは普通の人としてコミュニティで生きていく選択(モラトリアム)もできる…が、黒波の崩壊が彼に喪失を思い出させると共に覚悟を決めさせます。コミュニティで人間性を得ていく黒波の崩壊。もう、こんなことは終わりにしなければならない。その首魁である父親と話をしなければならない。母親のクローンの死が、シンジの最後のモラトリアムを終わらせた。

メタ的にいえば、これはちゃんとエヴァンゲリオンを終わらせる。Qという問題作を作りながら、長い時間エヴァンゲリオンを放置した落とし前をつける、という庵野監督の決意だと感じました。だから、お話の転換点として、黒波というQを象徴する存在の崩壊は必要だったのです。同時に、人間性を得るという序、破の綾波との決別をも図ります。そして、”ちゃんと言葉でお別れをする”という一歩進むことのできた黒波の姿が、物語を、シンジを今まで誰も見たことがない一歩進んだ場所に入る入口となるのです。

 

大人になれない僕らの強がりをひとつ聞いてくれ ~「カサブタ」より~

自分がエヴァンゲリオンを初めて見たのは、ちょうどシンジと同じぐらいの歳にVHSをレンタルしてきて、でした。それが今ではゲンドウに近い年齢になってしまいました。碇ゲンドウ。たった一つの願いのために、世界を巻き込んだ男。大人であるが故に、それを身勝手とされ、息子に否定されることになった男。大人になる、とは言いますが、大人になったなんて自覚はそうそう訪れるものでもありません。大人である振りをしながら、自分の子供の部分と折り合いをつけている、というのが、この年齢になって嫌でもわかった個人的な所感です。一見合理的で冷静な大人であるように見えながら、内心を吐露するシーンになったゲンドウは、まるで迷子の子供のようでした。自分の社会不適応を認識しながら、折り合いをつけられずに生きていたある日、シンジの母親であるユイと出会う。自分しかいない暗い世界に差し込む光明であり、大人になれる扉かもしれなかったユイは、消えてしまった。残された自分は、ユイを取り戻すという妄念に取りつかれた子供であり、そんな子供が子供の世話などできるはずもなく、ユイの残したシンジさえ、遠ざけてしまった。いや、正直そんなこと告白する親父の姿なんて見せられても、息子としてはどうすりゃいいんだよ、と思った自分はまあ、親不孝者なのでしょう。シンジは出来た息子なので、そんな父に優しい言葉をかけるのです。

そんなゲンドウも旧劇とは違い、父親として「すまなかった」とシンジに言うことができ、失ったユイを今自分と向き合ってくれるシンジにユイを見出し、去っていきました。

 

「生きろ」

まあ色々あってシンジは世界の再構成を行い、エヴァンゲリオンのない世界(今までの学園エヴァとかと違う、エヴァンゲリオンの要素が欠片もない世界)を構築することにします。その中で、旧劇のオマージュを行いながら、旧劇を清算していきます。今までのエヴァンゲリオンの要素は特撮の舞台装置のような一つ下の次元の要素となり、各キャラクターがエヴァンゲリオンに押し付けられていた”設定”から解放されて退場していきます。なので、実はこの作品の予習に必要なのは、新劇ではなく、旧劇です。旧劇をオマージュし続けることにより、まるでLCL化のように、旧劇を初めて見た時から抱いていた複雑な感情が、溶けていくのです。

新しい創世(Neon Genesis)後の世界は、まるで現実世界で。彼等は、そして彼等を見てきた私達の世界が溶け合って、重なり、映画は終わります。その世界を誰もが明日に向かい生きていく…。エヴァンゲリオンという物語を終わらせるには、もう現実とオーバーラップさせ、「はい、エヴァンゲリオンはこれで終劇!こいつらもお前ら明日を生きろ!」と、旧劇の「みんな死んでしまえばいいのに…」をブチ壊して終わります。長かったなあ、ここまで。というか、もののけ姫宮崎駿監督が出した答えに、庵野監督なりに回答できたのかなあ、と考えたら、Qからここまでの時間も無駄ではなかったのかな、と思ったりもしました。

 

かくして、エヴァンゲリオンは終わり、大人になった我々がシンジに重ねていた「少年」は、テーゼから神話となったのでした。