あの時プレイした美少女ゲームはこんなに「綺麗」だったのか? ~「天気の子」感想~

新作『天気の子』は、天候の調和が狂っていく時代に、運命に翻弄される少年と少女が自らの生き方を「選択」するストーリー。 映画『天気の子』公式サイトより

 ゼロ年代美少女ゲームの残り香のようなストーリーだと聞いた。葉鍵やロミオなどの、美少女ゲーム全盛期にリアルタイムで触れた世代ならば、PS2ドリームキャストで発売された、コンシューマ美少女ゲームをやっていた世代ならば、胸を打つものがある内容だと聞いた。だから、見に行きました。「天気の子」。

 

確かに主人公の帆高と、ヒロインの陽菜の前には数々の「選択肢」が現れ、

バーサーカーイリヤに殺されるエンド並に多そうな「帆高実家帰還エンド」や

ONEの「右に行く」「左に行く」並にノーヒントな上に、どちらでもよさそうなクイックセーブ必須の「銃を撃つ」「銃を撃たない」という選択肢、

2周目でいきなり「夏美の就活を手伝う」とかの選択肢が現れ、未読スキップが止まってビックリしそうな夏美ルート、

FDでファンの声に応えて追加された上に一番万事解決してしまう凪ルート、

等々、事前情報もあって、色々と見えましたよ。確かに美少女ゲームチックといえば、まさにその通りでした。そしてこの記事を書くために公式サイトを覗いたら、それらの美少女ゲームメソッドがポピュラライズされた文言が出てきたわけです。で、思わず引用したわけです。

映像作品としては見事でした。さすがと言うべき美麗な東京の景観と雨の表現が、素敵なBGMを伴って110分流された。それが、「天気の子」です。

それは、楽しくて美しくはあったが綺麗ではない記憶が、さも綺麗な顔して再演される居心地の悪い、気味の悪い時間でした。

自分にとって美少女ゲームとは後ろめたい記憶でもありました。決して人に言うような趣味ではなかったし、親にも何回もそんなゲームやめろと言われました。それでもやってた。ゲームをポンポン買えない学生時代に、手あたり次第買ってやってた。

美少女ゲームは、そのほとんどが「学園モノ」、つまり青春モノです。作中の帆高のような、とにかく真っ直ぐで、キラキラしていて、甘酸っぱい恋。当人以外には、作中の刑事のように舌打ちの一つでもしたくなるような恋。

そう、当人以外では舌打ちしたくなるような恋故に、これは昔やった美少女ゲームだという話もわかるのです。でも、自分はもうそれは遺産のような記憶で、既に舌打ちしたくなる刑事側になっていた。須賀さんのような「元主人公」でもなく、外縁にいるキャラクターの方に心情が寄る歳なのです。

自分は、美少女ゲームでは主人公名を自分の名前に変える(それでヒロインの音声がそこだけ無音になっても)ぐらいには、自己投影をする派でした。そんな自分は大学生の終わりくらいに、「アマガミ」を最後に、学園モノの主人公に全く自己投影できなくなり、あれほどやっていたギャルゲーとラノベから離れていきました。

そんな葛藤を須賀さんは担当していました。「大人になると物事の優先順位を変えられなくなる」と言ってたり、水や立場や心に囚われて、しかし帆高の願いに涙を流す(この涙、僕は憧憬だと思ってますが、解釈は人によるでしょう)須賀さんは間違いなく一番自己投影できるキャラでした。が、そんな彼も帆高のために公務執行妨害をし、お縄についてしまった。まあ帆高のためのお話なので仕方ないですが、須賀さんが遠くに行ってしまったようで少し寂しかった。

さて、帆高と陽菜の運命が世界(といっても東京ですが)の運命と直結しているという意味では、「天気の子」は確かにセカイ系と呼べるのかもしれません。ただ、個人的にはこれは決してセカイ系ではないんですよね。確かにセカイ系たる要件は満たしているのですが、セカイ系を名乗るには、余りにも世界の強度が強過ぎた。

オチの話になってしまいますが、帆高と陽菜が選んだ選択肢故に、東京の半分が3年かけて水没します。レインボーブリッジの橋げた部分が水没するレベルです。が、それでも江戸っ子はめげなかった!!作中のおばあちゃんは「江戸って昔はこんなもんだった、戻っただけよ」と達観してるし、水没した各種交通機関の代わりに水上バスブイブイ走り、桜も咲いてお花見を楽しみにする人もいる。須賀さんも「まあ何とかなってるし、気にすんなよ」とか言ってる。首都機能?経済的損失?そこはセカイ系の例に倣って社会領域を排除・・・単純に尺的に不要だからかもしれないが・・・したのでカット。そして再会した帆高と陽菜。帆高が「大丈夫!」と叫ぶ。タイトルドーン。いやあ、若いねえ・・・とは思ったが、共感や感動は特になかった。新しい日常として処理される「セカイ」は、個人的にはセカイ系の世界とは繋がらないのだ。

そもそも翻弄される運命も天候を左右する謎の存在よりも穂高がたまたま拾った銃とその発砲に依存しており、天候を左右する存在、それへの人柱となる人間の存在もムーに掲載されるオカルトレベルから脱することなく、陽菜の人柱への覚醒も自分で見聞きしたけではなく、人から聞いてという存在感。銃は天気より強し。

さて、銃といえば、ヒロインの陽菜について。お金に困って売春にまで手を染めそうになる、帆高のようなラッキーケースは想定できない状況で、それを邪魔した帆高にキレるのはまあわかるのですが、その帆高が銃をいきなり発砲するような奴としかわからない段階で、「ちょっと言い過ぎた・・・ごめんね」みたいな感じで接してきた上に、二人して銃の存在をコロっと忘れて話を進めていくのは、どうかと思った。日本の東京を舞台にするならば、「拳銃」という存在は、天候を操る謎の存在より重い。それとも、東京って拳銃ぐらい当たり前なのか?東京って怖い場所だなあ・・・。帆高曰く、オモチャと思ってお守りとして持っていた、とのことだが・・・いや、苦しくないかな、それは。実弾がすぐに発射可能な銃とかんしゃく玉鉄砲との違いはさすがに、ね。

そしてヒロインの陽菜自身が何というか、「天気の子」だからキャラクターどうより舞台装置感が強過ぎて、キャラクターとして評価できないという。夏美さんやスーパーショタこと弟の凪のようなキャラクターとしての役割は果たしていたと思う。

と、まあ色々書き連ねてみたが、批判的になってしまった。いや、恋人や友達を気軽に行くには良い映画だと思いますよ。「君の名は」よりは。

その「君の名は」で生乳を飲ませるような新海監督が成分調整された牛乳になった感じがしてましたが、今作はさらに飲みやすい牛乳になったかと思います。

最後に。繰り返しになりますが、これは確かにPS2のギャルゲーで見たようなシナリオだが、こんな綺麗な存在ではなかった。少なくとも、もっとアングラで、ドロドロとしていて。例え劇場版であっても、夏休み中の女子学生と肩を並べて見るような、そんな存在では、僕の中ではないよ、美少女ゲームは。

【追記】

そういえば3年間天候が変わらなかった、ということは少なくとも関東圏で「天気の子」は発生しなかったということになる。ある日、東京の天候が回復した時に。事実を知る帆高と陽菜は、犠牲になった「天気の子」に何を思うのだろうか。

担当のSSRが来た日

7月26日15時。デレステにおいてSSRメアリー・コクランがピックアップされたガチャが終了した。だからというわけではないが、彼女のSSRについて記事を書こうと思う。

 

7月22日月曜日。ローテーション的にはデレステのガチャ更新にパッションが含まれることは知っていたが、正直期待はしていなかった。二人実装が本格的になってきたとはいえ、メアリーの順番はもっと後、もしかすると今年中には来ずに、トリに近いぐらいになるかもなとさえ思っていた。なので、15時の更新は確認もしていなかった。

夜。仕事を終え、ガチャ更新あったなと何気なくデレステを開く。なるほど、関ちゃんか。ということは、パッションもボイスがある子かな・・・と思っていると、目に飛び込んできたのは、プールサイドで笑う、メアリー。「ヒッ」と息が抜ける音がした。それは「恐れ」だったのかもしれない。ついに来たのだ、その時が。彼女の最初で最後であろうSSRが。

何故このような反応になったか。それは物事をネガティブに考える癖のある自分が辿り着いた一つの考えがあったからだ。それは、「SSRデレステにおける、そのアイドルの墓標となる」という考え。デレマスの環境は厳しい。いちいち例や状況を上げたりはしないが、SSR1枚を与えられるかわからないアイドルがいる世界だ。そういうアイドルにSSRが与えられる時、それは自ずとデレステ世界における、そのアイドルの結論、終着点、完成となる。たった1着の、そのアイドルしか着用できない衣装と共に。それ以上はない。そのアイドルが残した軌跡と結果が刻まれたもの。それは墓標というものだろう。

しかし、メアリー・コクランは担当だ。それが墓標だろうが何だろうが、向き合う覚悟は決めていたし、どんなセリフが、コミュが、衣装が来ようとも、受け止めて愛してあげるぐらいしか自分にはできない。それに、やはり嬉しかったのだ。爆発的な、叫ぶような喜びではない。震えるような、噛み締めるような喜びだったが、嬉しかったのだ。

天井に到達した10連で、お迎えする。ピックアップ特殊演出に浮かぶ、メアリーのサイン。彼女らしい、流麗なアルファベットのサイン。動画でも残したが、この瞬間は忘れないようにしようと思った。一度きりしかない瞬間で、祝福すべき瞬間だったから。

カード名は「レットイットキュート!」。let it cute.

ポイントはherではなくitだということ。herだとメアリー自身で確定するが、itだと例えば有名なlet it beのように、itを何と取るかで解釈が変わる、つまり何が「可愛くなる」かはこちらに委ねている。英語の妙。アメリカ人のメアリーらしいカード名だと思う。

衣装も、自分は初期Rのリファインかなと思っていたら、アメリカ要素を全面に出しつつ、それにアイドルがくわれないまとまったデザインであった。言葉で語るより見てもらった方が早いので、スクショとかを見てもらえると有難い。

特筆すべきはコミュである。特に親愛度コミュ。これはデレステにおいて、そのアイドルとカードの方向性を端的に表すコミュである。あの短文のセリフに、下手なイベントコミュ全話以上の解釈の余地と、情報が敷かれている。故に、ここが素晴らしい出来だったのは本当に嬉しかった。

どれぐらい嬉しかったかというと、前述の墓標だの何だの思考が吹っ飛び、メアリーとまた歩み続けられる未来が見え、そして。

「彼女の担当で本当に良かった」

と思えたぐらい。

このブログにも記事があるが、自分は一回、彼女から逃げ、目を背けてしまった。そうしながら、未練がましいことばかりしていた。周りに励まされ、恥ずかしながら戻ってきた。そんな暗い記憶を持つ自分の前に、

”アタシから目を離さないで”

”どんなアタシでも、きっとダーリンに見せてあげるからネ”

”・・・大好きよ、マイダーリン”

と言ってくれる彼女は、墓標なんかじゃない。新しい道であり、未来であり、福音だった。

もう少し頑張ろうと思った。メアリーがいる世界は厳しい世界だが、まだ彼女は消えたわけではない。自分も目を離したわけではない。

彼女に関わる日々が、足跡になっていくのだろう。それがすぐ消えてしまっても、足跡は確かに刻まれたのだ。

最後に、この言葉を持って記事を〆させていただく。

 

「出会ってくれて、ありがとう」

 

 

 

キングオブモンスターズ ~アメリカ全力パンチの怪獣映画~

ゴジラ キングオブモンスターズ(以下KOM)、早速見てきました。その感想の記事となります。ネタバレです。未鑑賞の方は今すぐブラウザを閉じて映画館へGO。

 

 

 

 

さて、まずは。

最高。もう本当にこれ。

予告編での期待値を遥かに超える面白さでした。

GODZILLA」、「髑髏島の巨神」を経た今作で、ハリウッド版ゴジラ(というか、モンスターバース)は一つの到達点に達したと断言できます。

当たり前ですが、これはアメリカが作ったゴジラです。ここが重要なのです。良くも悪くもアメリカらしい怪獣への対応と家族ドラマを経た「GODZILLA」。第二次世界大戦からベトナム戦争へ至るアメリカと、その同盟国日本が過ごした戦争の時代の中で、その中で生まれる狂気とロマンを怪獣と上手く融合させた「髑髏島の巨神」。そして今作KOMに至り、ついに日本が生み出した怪獣ゴジラへのリスペクトと、米国が持つ世界観と呼ぶべきものが、怒涛のスケールで融合し・・・これは個人的な感想ですが、虚淵ゴジラ三部作で割合絶望的な気分になっていた日本人の僕の顔面を殴り飛ばしてきたのです。

最初のシーンは「GODZILLA」のサンフランシスコである家族を起こった悲劇・・・かと思いきや、同作であれ程勿体ぶっていたゴジラの咆哮をいきなり流し、ビルを破壊するゴジラが登場します。このシーンだけで「家族ドラマと怪獣映画の配分はこんな感じだからな?」というメッセージを感じさせます。

GODZILLA」でゴジラが暴れまわったので世界には巨大生物(タイタン)がいることを知った人類。タイタンですよ、タイタン。もう神様じゃないですか。世界各地に眠る巨大生物は確認されているものの(ちなみに富士山にも一匹いたりする)、その存在は隠ぺいされ、ゴジラも行方不明。人々は一部の人を除いて、「あんなものがいるのはわかっているのに、どこにいるかもいつ現れるかもわからない」という不安感が包む世界になっています。

そんな中、サンフランシスコで息子を失ったエマ博士が「オルカ」という周波数を分析して怪獣の行動をある程度自由にコントロールできる装置を開発します。オルカ、これはシャチの学名として有名ですが、元の意味は冥界という意味です。シャチはイルカの仲間なので、鳴き声で意思疎通をはかるので、そこから命名したのでしょうが、彼女の執念が生み出した機械の神ともいえましょう。そんな彼女は怪獣に息子を殺され、その意味を考えた結果、「怪獣は地球環境のバランスを司る使いであり、目覚めさせることによって、早々に人類によって破滅を迎える地球を救う」でした。要するに彼女は息子は神への贄となった、その犠牲を無駄に自分はしてはいけないと信じ込むことで自分を救おうとしたのですね。彼女にとって怪獣は使徒だったのです。途中までは。

そんな彼女の元夫、マークが息子の失ったことから逃避を選び、自分が作ったオルカのプロトタイプも破壊、ゴジラへの憎悪を抱えながら独り身で過ごしていたことを考えると、対極的な道を選んでいるわけですね。

残された娘のマディソンはその間で葛藤し、翻弄されるのですが、怪獣のコントロールに失敗し、息子を失った意味の探求と破滅願望を混在させている母親を見て、オルカを母親以上に上手く利用し、人が作った機械神の主となるのです。豪雨の中でギドラとゴジラのマッチメイクをした時に見せた壮絶な笑みはまさにその証拠、子供であろうが「人類という獣(モンスター)」でありうるのです。そんな彼女もオルカが破壊され、その力の失った後は家族で住んでいた家へ戻り、そこを破壊の余波が襲うと子供らしく絶叫する・・・。

さて、この一家が今作の主人公ですが、もう一人、語らねばならない人物がいます。芹沢博士です。

初代ゴジラにてゴジラと運命を共にしたあまりにも有名な人物の名前を持つ彼には、今作にて最高の出番が用意されています。僕はその流れのシーンは涙が止まりませんでした。隣の外国人を驚かせてしまったようですが。

そのシーンとは、もうおわかりですね。そう、ゴジラとの心中です。ギドラとゴジラを一網打尽にするために海上で戦い2匹に「オキシジェン・デストロイヤー」という米軍の新兵器が投入されます。同じ名前の強い爆弾、とかではなくマジで酸素破壊装置です。酸素に呼吸を依存する生物なら例外なく死にます。が、ゴジラを活動停止に追い込むも、ギドラには通用せず。逆にゴジラが活動停止したことにより「王」がギドラとなり、世界各地で怪獣が暴れだす事態に。活動停止により死んだと思われていたゴジラを発見した芹沢博士たちでしたが、パワー注入するための核兵器が作動せず誰かがゴジラをところまで行って手動で作動させることに。そこで芹沢博士が潜水艇に乗り込み、X星人の服にも見えるような、あの潜水服にも見えるような、絶妙なデザインの恰好をしてゴジラの元へ。というか、潜水艇というか完全に人間魚雷「桜花」でしたね。

ゴジラが眠る場所への階段を上る芹沢博士。放射線数値はとうに限界を超え、目はかすみ身体の動きは鈍る。まるでそれはゴルゴダの丘へ至る救世主のような、痛々しくも荘厳な画でした。「オキシジェン・デストロイヤー」によって発生した事態が芹沢博士をゴジラの元へ導き、神の受難を挟み、そして彼は”日本語”で”あのセリフ”を語り掛け、ゴジラに初めて触れながら光の中へ消えていくのです。「神よ、なぜ見捨てたもうたのですが」なんて言いません。ゴジラも骨にはなりません。人と神だった関係が、その瞬間だけ対等な、そう、「友」となったのです。このシーン考えた人、天才でしょ?

キリスト教世界観との素晴らしい融合。このシーンだけで、この映画はゴジラシリーズの中でもぶっちぎりで名を刻む名作であると、僕は言いたい。

そんな気合注入でゴリマッチョになったゴジラはギドラとの最終決戦へ。初戦と違い、優勢に戦いを進めていきます。ギドラといえば、「オキシジェン・デストロイヤー」が通用しない、つまりそれは酸素に依存しない生物・・・地球外生命体ということになるというのは、上手いと思いました。X星人要素ですね。

ゴジラが活動停止している間に、ギドラが拠点としていたワシントンDCでの人類の総力戦、それだけで映画作れそうなレベルでしたが、描写は少なかったですね。まあ、怪獣映画だから仕方ない。しかし、ホワイトハウス以上に連邦議事堂ってランドマークとして優秀な建物ですよね。首都にあるといい、東京タワーのアメリカ版というべきか。

さて、最終決戦なのでギドラも都市の電力を吸い上げて放出する最強技を放ち、ゴジラを追い詰めます。そこで予告編にも登場したバーニングゴジラがついに登場。芹沢博士の気合注入が凄すぎて暴走気味でメルトダウンしそうだったのが、少し前にエネルギーを吸われてていい感じになったようです。ついにバーニング熱線が!?と思ってたら、エネルギー放射の方でした。そっち!?いや、VSシリーズでよく使ったから嬉しいけど!

と、その圧倒的な力でギドラを倒したと思ったら世界各地の怪獣がゴジラを取り囲む。おっ、怪獣総進撃か?と思ったら、怪獣たちはゴジラにかしずく。

そう、「王の帰還」である。キングオブモンスターは、そこにいるのだ。

 

・・・とまあ、こんな感じです。シン・ゴジラ現代日本が生みだした「リアルなゴジラ」なら、この作品のゴジラゴジラが好きな人間がすべてのゴジラ作品にリスペクトしつつアメリカ人的な価値観を元に再構成・・・好き放題やった「ファンタジーゴジラ」といえましょう。

シン・ゴジラが怪獣映画としてどうかはともかく、作品としては東日本大震災を経た、リアルな災害を見てしまった日本に、必要な作品だったと思います。庵野監督のメンタル的にも。

アメリカはキリスト教価値観の国であり、同時に世界最高峰のエンターテイメントの国です。その宗教的な構図、面白いものを全力で作るマネーとパワーがある国。そんな場所でゴジラが大好きな人間たちが作った、超強烈なストレート全力パンチがこの作品です。

まあ、そういうことは抜きにして、怪獣映画で面白い作品に久々に出会えました。感謝を。

 

 

 

あるプロデューサーの2018年

今年もあと数時間で終わろうとしている。2018年は、色々と嫌な年だった。良いことが少なかった年だった。原因が色々とあるが、ここではアイドルマスターシンデレラガールズのことについて語りたい。

 

春先から既に兆候は出ていたように思う。その時期にあった総選挙の活動もポスター一枚を作ったぐらいで、特別なことは何もしていなかった。もちろん、獲得できる票は獲得して全部担当に入れた。しかしそれだけであり、総選挙の「熱量」から逃げていた。自分にはない、尊いものを見るのが嫌だった。さらに正直なことを言えば、勝ち筋のない担当の現状の絶望感から逃れられなくなっていた。わかっている。これは所詮遊びだ。ごっこ遊びだ。だから勝ち筋に関係なく、自分の好きなアイドルを宣伝して、好きなアイドルに投票すればいい。それが嫌なら他の遊びでも見つければいい。しかし、私はそれもせずに、このコンテンツにしがみついて、不平や不満だけは言う、情けない存在でもあった。

GWに担当のカードがモバの方で来たのは本当に嬉しかった。この娘は可愛い、応援したい、好きなキャラクターなんだと、本当に思ったのだ。不安材料だったデレステの新機能のデレぽでも、彼女の発言は少なかったが、私は彼女らしいと思う、納得できる発言ばかりなので嬉しかった。

ボイスなしのアイドルのSSRデレステで続く中、いつか彼女のSSRも来るだろうと、更新の度にソワソワしていた。デレステで新曲が出れば彼女のスクショを取り、考えついたことがあればTwitterで発言し、モバのユニットで登場すれば反応する。貴重なグッズが出れば買いに行く。そんな毎日だった。梅雨の時期にはデレステで、彼女の全ポテンシャルを解放した。彼女のSSRが実装され、最強の彼女を見ることが楽しみだった。

7月。ミリシタの一周年イベントを機に、その頃は仮の担当だった島原エレナのSSRを取ったまま放置していたアカウントで復帰した。その後、エレナの限定ガチャも来て、この頃から明らかに重心がミリシタの方に移動しつつあった。それから8月にかけて、ミリシタの勢いはどんどん増し、自分が離れていた間にミリシタに実装されていた楽曲のクオリティの高さ、コミュの丁寧さに驚いた。特に虹色lettersには深く感銘を受け、それを島原エレナが歌っていることに運命的なものを感じ、島原エレナが担当という軸に明確に昇華し、ミリで生きていく一歩を踏み出した。それと同時に、2018年のデレの楽曲やコミュなどが全く記憶に残ってないことを自覚していた。ボイスがない担当が参加する可能性がゼロでも、デレの楽曲やコミュとの距離が遠くになりつつあることを感じていた。

それでも8月の終わりまでは「決定的」ではなかったし、「明確」でもなかった。もちろん不満や愚痴がなかったわけではない。私はTwitterでも特に憚らずに言っていた。でも、担当から離れるつもりはなかった。最後の最後まで見てやりたいと思っていた。ただ先に感じ始めていたデレというコンテンツへの不安感から、来たるアニバーサリーには期待はしないでいた。

そして8月31日。終わりは来た。新しい共通衣装、そして「ガールズ・イン・ザ・フロンティア」実装。アニバーサリー曲というのは、他のイベント楽曲とは違う。それからのコンテンツの向かう先と、彼女を取り巻く世界をどう示していくか、運営からのメッセージソングなのだ。そして今年のアニバーサリー曲はこれまでのそれとは全く違うものだった。新機軸を出すのはいい。「変わらなければやがて朽ちてく」と言ったのは、他でもない運営なのだ。

しかし、それは到底容認できる新機軸ではなかった。いや、新機軸でもなかった。今まで散々訴えてきたことを全て崩して、新しいものを提示するそれは、もはや暴力革命のようなものだった。

「自分の足で歩けシンデレラ」。嫌いだ。本当に嫌いなフレーズだ。

自分が何処か信じていたものが崩れ始めた。そのせいか、それからのデレステの楽曲は聞くに堪えない粗末な楽曲ばかりだった。クレイジークレイジーは何とか思い出せるが、ミステリアイズという「強い」2人を出してあんなメンヘラこじらせた曲しか出せないのかと思い、ハイファイデイズで元気よく未来への希望を歌ったメンバーに幼児退行を起こしたような曲を歌わせるのかと思い、アンデッド・ダンスロックは個性を調整に失敗したとっ散らかった楽曲だと思い・・・そして、一大イベントであるドームライブ「しか」意識していないStarry Go Roundは前奏の時点でふざけるのも大概にしろと思った。

チケットが当たったので現地に行ったSS3Aも正直面白くはなかった。ライブに行った回数はそう多くはないのだが、あんなに虚無感を感じたライブは初めてだった。

そして、私はデレの楽曲を切ることにした。携帯に入っていたデレ関係の曲を削除した。お願いシンデレラだけは最後まで迷ったが、やはり削除した。

そこからの崩壊は加速度的だったように思う。白菊ほたるのキャラクター性にだけは感心したが、残念ながら私は彼女の担当にはなれそうになかったし、サプボで新たなステージに羽ばたいていく彼女についていく気はなかった。彼女も迷惑だろう。

そうしてデレステにログインしなくなり、アプリを削除した。ただバンダイナムコIDとの連携は残してあったので、復帰しようと思えば復帰できる状態ではあった。

11月半ば。モバの方で、彼女の出番が来た。可愛かった。真っ直ぐで強い少女だった。頑張り屋さんの、おませな女の子だった。イベントのシステム上、たくさんセリフがあったので、とても嬉しかった。嬉しかったのだ。ただ、心の芯は冷えたままだった。自分でも信じられなかった。ただ、以前ならセリフ一つ一つを一か月ぐらい延々と語っていただろうに、一週間も経たぬうちに、彼女から何も感じ取れなくなった。

逆にミリシタの方への言及は増えていた。島原エレナ以外にも好きなキャラクターが増えていき、世界が拡大していくのを感じた。それはもう、デレでは感じられない熱量だった。

「ガルフロ」の実装からデレの粗ばかり目に入り、最初はそれに憤っていたのだが、この頃にはもうその気力さえなく、界隈が荒れるのを横目に見ながら、暗澹たる気持ちになる日々が続いた。

12月。ドームライブ。地元の名古屋で行われたので、会場を見に行ったものの、辛くなってすぐに帰った。その夜、新キャラクターの発表があった。

頭おかしいんじゃないかと軽蔑することはあっても、もう憤る気力もなかった。ただ、そういうことをする、これからもそうゆうことをするのなら、もう清算しようと思った。こんなコンテンツに金を落とす要因なんて消してしまおうと思った。

まず、モバゲーを退会した。入った理由もモバマスなら、辞めた理由もモバマスだった。そして1200枚ほどあった彼女に関する画像、スクショ、思い出。全部消した。USB何かに残そうかと思ったが、未練だし情けないのでやめた。1時間ぐらいかけて、泣きそうになりながら消した。

年内最後のパッションの更新を期限と決め、デレステの連携も解除しようと思った。大方の予想通り、イヴだった。そのことに不満はない。それまでのふざけたガチャ更新からすれば、まともな方の更新だった。ついぞ2018年に彼女のSSRは来ず、界隈を見てれば来年はさらに絶望的なのは嫌でもわかった。そしてデレステの連携を解除し、消した。

これでデレにおける私というプロデューサーは事実上消滅し、見捨てた彼女はまだあのコンテンツで生かさず殺さずで生きていくことになった。

これがあるプロデューサーの一年の顛末である。卑しいだろう、醜いだろう、情けないだろう、未練がましいだろう?

現在はデレに言及する時は、あざ笑う時だけである。全て自分可愛さの、尊厳も誇りもない、なれの果ての搾りかすの鳥が囀るのだ。

主軸をミリシタに移動させたが、こんな悪辣な人物なので、迷惑をかけないようにしている。今年の総括をブログにしたのも、Twitterよりは閲覧の敷居が高いためだ。

まあ、ミリの方は話はこのぐらいでいいだろう。

最後に。私の担当の名前を、もう名前を呼ぶことさえ辞めようとしている、担当の名前を記す。

彼女の名前は、メアリー・コクラン。

私が支えたかった、でも逃げ出した、キャラクターの名前だ。

 

 

 

 

 

映画「来る」という小説「ぼぎわんが、来る」の””アナザー””

超久々のブログ更新となります。そのお題は先日公開されたホラー映画、「来る」。原作は第22回日本ホラー小説大賞で大賞を受賞した「ぼぎわんが、来る」。私は映画を見ると決めてから原作を読みましたが、大変面白い作品でした。そして気になったのが、私が原作に抱いたイメージと、トレーラーの映像の雰囲気の違い。ホラー映画の準主役ともいえるお化けの名前を敢えて外した映画版、これは成分は同じでも、全く違う毛色の作品になりそうだ・・・と覚悟して見に行きましたが、それはどうやら功を奏したようです。なので、個人的には映画を見る前に原作は読んだ方がいいです。

さて、各登場人物別に原作との違いを踏まえつつ感想を書いていきます。なので、原作と映画のネタバレを含みます。なのでそれが嫌な人はここまでで。

 

 

 

 

〇田原秀樹

原作では第1章の語り手。自己中心的なイクメンで、そこから生まれる家庭内の歪みが「ぼぎわん」を呼び寄せる。

映画では自己中心的で、周りの目線ばかり気にする、イクメンなのに妻と子供を顧みない傲岸不遜ぶりを、それを妻夫木聡さんが好演してくれています。

原作では秀樹の地元の化け物「ぼぎわん」と、彼の実家の因縁が恐怖の始まりだったのですが・・・そこはバッサリとカット。まず原作では重要な祖父の家での留守番の場面がだいぶカットされて、ただ「ぼぎわん」らしきものが襲ってくる、に留めてあります。その代わりに、行方不明となる少女との会話。「呼ばれてしもたら、逃げられへん絶対。だってアンタ・・・」とトレーラーでは伏せた場所には「嘘つきだから」が入ります。

そう、映画の彼は徹底的に嘘つきなのです。原作では真摯なところもあった(もしくは第1章が彼視点なので、そういう印象を植え付けられた)秀樹ですが、周りに対しても、妻に対しても嘘ばかりついてるクズのような男になっています。

おかげで彼が「ぼぎわん」との対決を決意するシーンが割合空虚なものになり、その後「ぼぎわん」の罠に引っかかって命を落とすシーンも哀れな被害者にしか見えません。

と、散々な彼ですが、後半の原作にはない、自分が死んだことにも気づかずに自宅のマンションに漂う彼の霊魂を除霊するシーンで、彼は死んだ自分に気付いて号泣しながら叫ぶのです。「知紗に、知紗にもう一度会いたい」と。彼は死んでから、やっと本当の自分を出せた・・・しかしもう遅過ぎた。彼はそのまま消滅します。

しかし、彼が最期に叫んだ知紗ですが、あんな存在では・・・。

〇田原香奈

原作では第2章の語り手。化け物に襲われるパニックホラー的な恐怖の前章から一転、彼女は人間的な怖さの担当となります。「ぼきわん」とは関係なく、母親という存在が陥る歪み故に。

そう、母親です。映画の彼女は母親という存在に徹底的に狂わされていくのです。原作でも彼女の家庭環境、ひいては母親が碌な存在ではないことは示されていますが、原作での言及は少ないです。しかし映画はそこをフィーチャーしています。

明らかに水商売ぽい、ド派手なメイクと服に身を包んだ香奈の母親ですが、いつまでも若い自分のつもりで、しかし加齢とともに現実と乖離し始めると、それを香奈の出産のせいだとなじる、ダメな母親になっています。ちなみに父親の存在は全く出てこないので、香奈が誰の子かもわからない、そんな男女関係だったのでしょう。香奈はそんな母親になるまい、と秀樹との結婚、そして出産、子育てに臨むのですが・・・彼女の想いもむなしく、彼女は自分の母親と同質の存在へとなっていきます。

まず、秀樹を見限るのは原作と同様なのですが、彼女は母親より女としての自分を優先させることがハッキリと描写されます。つまり、不倫です。まあ、原作でも映画でもハッキリと不倫してる秀樹という存在がいるので、それはいい(?)のですが、彼女は娘を顧みなくなります。そして彼女は娘を比嘉真琴に世話をさせ、かつての母親と同様に、ド派手なメイクと服をまとって、間男との情事にふけります。

原作では貞淑な妻ゆえに、”我慢したこと”が元凶となりますが、映画は反対に”我慢しないこと”が元凶となり、事態を悪化させます。

そして「ぼぎわん」の襲撃。原作どおり真琴が盾になっている間に、娘と逃走します。「どこでもいいから遠くへ」。そう言われるのも同じです。しかし、新幹線に乗った原作の彼女と違い、映画の彼女は最寄りの駅でどうすればいいかわからずに、なんと駅のレストランで娘に食事をさせます。要するに現実逃避です。

そんな現実逃避でも、食事をする娘を見て、彼女も娘を守るために覚悟を決めるのですが、そのタイムロスは決定的でした。知紗がトイレをせがんだので、駅のトイレへ。そこで二人で入った個室で、彼女は「ぼぎわん」に襲われ、死亡します。原作では生存した彼女が、あっけなく命を落としたのです。

彼女を襲った「ぼぎわん」が取った姿は、彼女の母親。

血だまりのトイレの床に倒れ、覆らなかった運命から解き放たれたことを喜んでるような、同時に覆らなかった運命に泣いてるような・・・そんな表情をした彼女は、原作の彼女の最期を知っていると、やるせない気持ちになります。

〇田原知紗

元凶。

原作では秀樹の実家が呼び起こした「ぼぎわん」を彼女が呼び寄せたことになってますが、映画では自分を顧みない両親の代わりに、遊び相手として「ぼぎわん」を呼び寄せたことになってます。つまり、知紗の単独犯になってます。

そして遊び相手を影響か、性格がかなり残酷なものになっています。いえ、子供特有の残酷さが「ぼぎわん」によって増幅されている、と言うべきか。

原作、映画共に「子供という存在」が重要なテーマの本作ですが、映画は子供の悪性を重点にしています。彼女は、その代表者の位置を与えられたのです。

〇野崎崑

原作と設定がかなり違っている人物。まず、彼の重要なファクターである無精子症の設定がなくなっています。妻との間に子供を作るものの、生みたいという妻に中絶を強要した過去がある、というのが彼の歪みになっています。

原作では生を作れない欠陥でしたが、映画は生を喜べない欠陥を抱えていて、より事態は深刻なことになっています。

子供への情はあるが、子供という存在に対する恐怖が強く存在する。そんな中途半端な彼がとった、中途半端な行動が、この映画のオチを呼び寄せるのです。

〇比嘉真琴

田原一家よりは原作との設定の相違はない人物です。子供が生めない身体なのも同じ。

原作ではそれ故に、人一倍他人の子供を愛し、守るために奮闘するのですが・・・。

映画では、田原香奈が放った「欲しいなら、あげるよ。知紗。」の一言が、彼女の中の黒い感情を励起させます。

終盤の除霊シーン。「ぼぎわん」に取り込まれた彼女が再び野崎の前に現れ、田原夫婦をどうしようもない奴等だと思っていたこと、そんな家に子供がいること、その幸せを忘れて赤の他人の自分のあげるなどと言い放ったことへの憤怒を表に出します。

そして「ぼぎわん」が生み出した、膨らんだ自分のお腹を野崎の子だと言い、それを野崎が否定すると、彼女は割れたガラスで腹を突き刺すのです。

生めない女と、生ませなかった男。二人にとっての悪夢が、再度繰り返されたのでした。

〇比嘉琴子

真琴の姉で、日本有数の霊媒師。原作では物語に幕を引くデウスエクスマキナ的な存在。映画でもその役割は健在。ですが、状況が全く違う映画では、幕の引き方は全く違います。

知紗が原作以上に「ぼぎわん」に近いため、「ぼぎわん」を除霊するために、知紗もあちらの世界へ返す判断をします。そのために、原作以上にドライな印象を受けます。

・・・ですが、彼女が原作では知紗を救う判断をしたのは状況判断の結果であり、状況が違えば、知紗もろとも「ぼぎわん」を除霊する判断をする・・・というのは、考えられない話ではないと思いました。つまり、彼女は他の登場人物とは違い、ブレが生じてないとも言えます。彼女のデウスエクスマキナ的な役割がそうさせたのだろうと、そう思います。

〇津田大吾

秀樹の親友の民俗学者。原作の唐草大悟に相当する人物。そして香奈の不倫相手です。

名前も違うし、民俗学者ぐらいしか共通点がない。

原作では香奈にモーションをかけるも、相手にされない冴えない男の印象でしたが・・・チャラ男です。大学教授かお前?てぐらいチャラいです。

秀樹の家庭を呪うのは同じなのですが、理由は原作では家庭を持つことを当たり前だと思う奴等、世間が許せないという、まあ感情は理解できるよ・・・というものから、秀樹なんてただのオモチャで、アイツが得たものを奪っていくのが楽しみだったというドクズな理由になっています。野崎との共通点も、家庭を持つことを当たり前とする存在に対する憎しみから、そのような生をあざ笑う存在としての共通点に変更になっています。

そんな彼は原作の唐草と違い、「ぼぎわん」によって殺されます。

〇逢坂セツ子

霊能力者。原作では琴子の紹介で秀樹と野崎と会うも、「ぼぎわん」の襲撃を受けて落命、それこそが「ぼぎわん」の罠の始まりだった・・・という、「ぼぎわん」の恐ろしさを際立たせる存在。

が、映画では最終的に「ぼぎわん」に敗北するも、琴子以上に終盤の重要な役割の担います。

原作同様に片手を失うものの、「ぼぎわん」との決戦前に再び参戦。さ迷ってた秀樹の魂を鎮め、野崎に””異形との戦いでは生死のはざまでさえ曖昧になる。そこで確かなものは「痛み」だけ””という言葉を残す。この言葉が、野崎の後の行動を決定づける。

 

さて、映画は原作より人の悪性、悪意を焦点に当てていることは、もうおわかりだと思います。特に子供の悪性・・・笑いながら虫を殺す子供のような、純粋ゆえの悪性。「年齢的に」子供である知紗が、「精神的に」子供である大人を破滅させていく物語。救いがなさすぎますが、そうとも取れるお話なのです。

大人のような・・・合理的な判断が取れる故に、知紗を犠牲にしようとした琴子に対して、野崎は「遊び相手が欲しかっただけだ、両親が振り向いてくれないから化け物とだって遊んでしまうんだ!」と泣き叫びながら、知紗を救おうとします。子供を犠牲にすることが正しいとは思えませんし、野崎が一回犯した過ちを考えれば、そういう「癇癪」を起こしても仕方がありません。それに対して琴子は「ならば・・・ちゃんと抱き留めていなさい」と、つまり最後まで責任を持てよと言い、野崎を「ぼぎわん」から引き離します。

そこまで段取りを滅茶苦茶にされても「ぼぎわん」に勝利したらしい琴子のブレなさは置いといて。

ラストシーン。眠る知紗を抱いた真琴と、野崎がベンチに座りながら、これからどうすればいいのかわからないまま、知紗の見てる夢を気にします。真琴が能力で知紗の頭の中をのぞくと・・・

彼女が考えているのは、亡くなった両親でも、守ってくれた野崎や真琴でも、遊び相手だった「ぼぎわん」でもなく。好物のオムライスのことでした。そして流れるオムライスの歌。夢特有の狂気じみたオムライスの世界をバックに、知紗が歌う映像が入ります。それを真琴が野崎に伝えると、彼はシニカルに笑って、「なんじゃそりゃ」とうそぶくのでした。

これで終わりです。「は?」と思われる方もいるかもしれません。でも、原作を読んで、映画を見て、このラストは本当に怖かった。ゾッとしたんです。ナンセンスでもない、アイロニカルでもない。本当に子供が見てそうな、夢。この映画が訴えてきた、子供という存在の悪性、不気味さが結実したラストでした。子供は守るべき存在だということは守ってきた原作に対して、最後で渾身のストレートをブチかます、そんな感じです。

これは原作無視の映画ではありません。監督は原作を読みこんだ上で、映像化にあたってこう「ぼぎわんが、来る」を表現するのだと、叩きつけた作品です。

「ぼぎわんが、」を取ったのも意味があるのです。この作品に出てくるのは「ぼぎわん」らしき”何か”です。この記事では便宜的に「ぼぎわん」で呼んでいますが、原作のように姿は明確に出てこないし、原作より容赦なく殺害を繰り返します。呼ばなければ、来ない。のではなく、「来る」んです。奴は、もう。

 

さて、長々と語ってしまいましたが、ここで筆を置くことにします。あ、最後に。

岡田准一さん、本当に良い演技しますね。

シンデレラ☆ステージ6STEP総括という名の自壊しかかったPのお話

3月11日(日)に開催されたシンデレラ☆ステージ6STEPに参加させていただきました。

拙作を手に取っていただいた方々、持っていった自作フィギュアを褒めていただいた方々、本当にありがとうございました。

さて、今回で同人誌即売会に参加するのも3回目となりました。アイドルマスター シンデレラガールズに登場するメアリー・コクランというアイドルの本があまりにも少ない・・・というか、ほとんどなかったのにショックを受け、ならば自分で作ろうと思ってから、1年と少し。即売会に参加するにあたっては、常に不安で、常に作品の生みの苦しみに悶え・・・そして、自分の力のなさという、現実に落胆していました。それでも、メアリー・コクランというアイドルのために、そして拙作を手に取っていただける方々のために、作品を3作品、お送りしました。そのシリーズも今作で完結です。

 

さて。

 

過去の即売会の総括は、当日かその翌日には書いていました。しかし、今回は一週間も間を空けてしまいました。何故かというと、今回の即売会が終わった直後は、総括を書ける精神状態ではなかったからです。それぐらい、今回の即売会は辛かった。

 「前回までと同様に、今回も楽しかった」と書いてしまうのは、簡単です。しかし、真剣に臨んで、熱意を込めて作ったものを出した場での総括で、嘘はつきたくありません。

今回の即売会で、端的に言えば、僕は自壊しかかりました。自分がいかに甘かったのか、そして驕っていたかを思い知ったのです。

まず甘さ。僕は絵が描けないので、文章だけの、挿絵の一つもない本を出しました。しかし即売会を重ねていくうちに、絵の練習ぐらいはした方がいいのではないか?その方が、メアリーコクランというアイドルを表現して、知ってもらう上で良いのではないか?という思いがどんどん膨らんでいきました。それでも、僕は、文章という表現に甘えていたのでしょう、絵の練習はしませんでした。即売会への参加も3回目となり、周りを見渡す余裕ができ、そして色々なグッズを見ました。文章主体でも、表紙は絵になっているものもありました・・・いえ、それが「普通」なんでしょう。夏コミにも、歌姫庭園にもあったはずの、それらが見えていなかった自分に失望し、そして3回目にしてまで何も工夫らしい工夫をしていない自分に絶望しました。

そして、驕り。「メアリーコクランというアイドルの本がないなら、自分が書いてやる」。そう思った、いつかの冬コミの想いは、本物だったのでしょう。ただ3回目の今回は、ただ「メアリーコクランというアイドルの本を出すこと」だけが、目的と化していたように感じます。彼女のために燃えていた炉の余熱で動いていた。端的に言えば、漫然となっていた。もちろん、シリーズ完結編ということで、頑張って作品を書きました。拙作を手に取っていただいた人に失礼のないように、そして僕が考える彼女の魅力が伝わるように。・・・それでも、「彼女の本を出す自分」にプライドみたいなものを持ってしまっていることを自覚してしまった時点で、その傲慢さに気付いてしまった時点で、とても、同人誌即売会にいる自分が恥ずかしくなったのです。

 

そんな甘さを驕りを痛感した自分が惨めで、情けなくて、卑しくて。メアリーコクランというキャラクターにも顔向けできなくて、一時は彼女から離れた方がいいのかな、と思いました。

そして1週間ぐらい考えてみて。それでも、彼女の隣に立っていたい自分が残っていました。それは燃えカスでも、灰でも、確かにそこに残っていたのです。

僕は恥ずかしながら、プロデューサーを続けることにしました。

 

・・・今回の記事は、僕の考え過ぎかもしれませんし、根っからのネガティブさが暴走した結果かもしれません。なので、何言ってるのかよくわからない文章かもしれません。それでも、こう思った自分がいたのだと。書き留めておくために、今回の記事を書きました。 

 

 

シンステの本の序盤公開

来たる3月11日(日)に行われるシンデレラ☆ステージ6STEPSに参加させていただきます。サークル配置はく-35となります。頒布価格は100円です。

またメアリーコクランの小説を書かせていただきました。「Next to her」と銘打って、駄文乱文を勢いのまま出してきましたが、今回がそのシリーズ完結編となります。といっても、前作を読まなくてはわからないような箇所はほとんどありませんが。

これまで作品を作るにあたって、一編を除いて全ての話をプロデューサー視点で固定してきましたが、今回は2つ、メアリーコクラン視点の話を入れました。

今回公開する序章は、そのメアリーコクラン視点のお話の一つです。

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いかがでしたでしょうか。僕のメアリーコクラン像と投射したものなので、皆様のメアリーコクラン像とはまた違ったものかもしれませんが、そこを含めて楽しんでいただければ幸いです。

では、会場でお会いできれば。