映画「来る」という小説「ぼぎわんが、来る」の””アナザー””

超久々のブログ更新となります。そのお題は先日公開されたホラー映画、「来る」。原作は第22回日本ホラー小説大賞で大賞を受賞した「ぼぎわんが、来る」。私は映画を見ると決めてから原作を読みましたが、大変面白い作品でした。そして気になったのが、私が原作に抱いたイメージと、トレーラーの映像の雰囲気の違い。ホラー映画の準主役ともいえるお化けの名前を敢えて外した映画版、これは成分は同じでも、全く違う毛色の作品になりそうだ・・・と覚悟して見に行きましたが、それはどうやら功を奏したようです。なので、個人的には映画を見る前に原作は読んだ方がいいです。

さて、各登場人物別に原作との違いを踏まえつつ感想を書いていきます。なので、原作と映画のネタバレを含みます。なのでそれが嫌な人はここまでで。

 

 

 

 

〇田原秀樹

原作では第1章の語り手。自己中心的なイクメンで、そこから生まれる家庭内の歪みが「ぼぎわん」を呼び寄せる。

映画では自己中心的で、周りの目線ばかり気にする、イクメンなのに妻と子供を顧みない傲岸不遜ぶりを、それを妻夫木聡さんが好演してくれています。

原作では秀樹の地元の化け物「ぼぎわん」と、彼の実家の因縁が恐怖の始まりだったのですが・・・そこはバッサリとカット。まず原作では重要な祖父の家での留守番の場面がだいぶカットされて、ただ「ぼぎわん」らしきものが襲ってくる、に留めてあります。その代わりに、行方不明となる少女との会話。「呼ばれてしもたら、逃げられへん絶対。だってアンタ・・・」とトレーラーでは伏せた場所には「嘘つきだから」が入ります。

そう、映画の彼は徹底的に嘘つきなのです。原作では真摯なところもあった(もしくは第1章が彼視点なので、そういう印象を植え付けられた)秀樹ですが、周りに対しても、妻に対しても嘘ばかりついてるクズのような男になっています。

おかげで彼が「ぼぎわん」との対決を決意するシーンが割合空虚なものになり、その後「ぼぎわん」の罠に引っかかって命を落とすシーンも哀れな被害者にしか見えません。

と、散々な彼ですが、後半の原作にはない、自分が死んだことにも気づかずに自宅のマンションに漂う彼の霊魂を除霊するシーンで、彼は死んだ自分に気付いて号泣しながら叫ぶのです。「知紗に、知紗にもう一度会いたい」と。彼は死んでから、やっと本当の自分を出せた・・・しかしもう遅過ぎた。彼はそのまま消滅します。

しかし、彼が最期に叫んだ知紗ですが、あんな存在では・・・。

〇田原香奈

原作では第2章の語り手。化け物に襲われるパニックホラー的な恐怖の前章から一転、彼女は人間的な怖さの担当となります。「ぼきわん」とは関係なく、母親という存在が陥る歪み故に。

そう、母親です。映画の彼女は母親という存在に徹底的に狂わされていくのです。原作でも彼女の家庭環境、ひいては母親が碌な存在ではないことは示されていますが、原作での言及は少ないです。しかし映画はそこをフィーチャーしています。

明らかに水商売ぽい、ド派手なメイクと服に身を包んだ香奈の母親ですが、いつまでも若い自分のつもりで、しかし加齢とともに現実と乖離し始めると、それを香奈の出産のせいだとなじる、ダメな母親になっています。ちなみに父親の存在は全く出てこないので、香奈が誰の子かもわからない、そんな男女関係だったのでしょう。香奈はそんな母親になるまい、と秀樹との結婚、そして出産、子育てに臨むのですが・・・彼女の想いもむなしく、彼女は自分の母親と同質の存在へとなっていきます。

まず、秀樹を見限るのは原作と同様なのですが、彼女は母親より女としての自分を優先させることがハッキリと描写されます。つまり、不倫です。まあ、原作でも映画でもハッキリと不倫してる秀樹という存在がいるので、それはいい(?)のですが、彼女は娘を顧みなくなります。そして彼女は娘を比嘉真琴に世話をさせ、かつての母親と同様に、ド派手なメイクと服をまとって、間男との情事にふけります。

原作では貞淑な妻ゆえに、”我慢したこと”が元凶となりますが、映画は反対に”我慢しないこと”が元凶となり、事態を悪化させます。

そして「ぼぎわん」の襲撃。原作どおり真琴が盾になっている間に、娘と逃走します。「どこでもいいから遠くへ」。そう言われるのも同じです。しかし、新幹線に乗った原作の彼女と違い、映画の彼女は最寄りの駅でどうすればいいかわからずに、なんと駅のレストランで娘に食事をさせます。要するに現実逃避です。

そんな現実逃避でも、食事をする娘を見て、彼女も娘を守るために覚悟を決めるのですが、そのタイムロスは決定的でした。知紗がトイレをせがんだので、駅のトイレへ。そこで二人で入った個室で、彼女は「ぼぎわん」に襲われ、死亡します。原作では生存した彼女が、あっけなく命を落としたのです。

彼女を襲った「ぼぎわん」が取った姿は、彼女の母親。

血だまりのトイレの床に倒れ、覆らなかった運命から解き放たれたことを喜んでるような、同時に覆らなかった運命に泣いてるような・・・そんな表情をした彼女は、原作の彼女の最期を知っていると、やるせない気持ちになります。

〇田原知紗

元凶。

原作では秀樹の実家が呼び起こした「ぼぎわん」を彼女が呼び寄せたことになってますが、映画では自分を顧みない両親の代わりに、遊び相手として「ぼぎわん」を呼び寄せたことになってます。つまり、知紗の単独犯になってます。

そして遊び相手を影響か、性格がかなり残酷なものになっています。いえ、子供特有の残酷さが「ぼぎわん」によって増幅されている、と言うべきか。

原作、映画共に「子供という存在」が重要なテーマの本作ですが、映画は子供の悪性を重点にしています。彼女は、その代表者の位置を与えられたのです。

〇野崎崑

原作と設定がかなり違っている人物。まず、彼の重要なファクターである無精子症の設定がなくなっています。妻との間に子供を作るものの、生みたいという妻に中絶を強要した過去がある、というのが彼の歪みになっています。

原作では生を作れない欠陥でしたが、映画は生を喜べない欠陥を抱えていて、より事態は深刻なことになっています。

子供への情はあるが、子供という存在に対する恐怖が強く存在する。そんな中途半端な彼がとった、中途半端な行動が、この映画のオチを呼び寄せるのです。

〇比嘉真琴

田原一家よりは原作との設定の相違はない人物です。子供が生めない身体なのも同じ。

原作ではそれ故に、人一倍他人の子供を愛し、守るために奮闘するのですが・・・。

映画では、田原香奈が放った「欲しいなら、あげるよ。知紗。」の一言が、彼女の中の黒い感情を励起させます。

終盤の除霊シーン。「ぼぎわん」に取り込まれた彼女が再び野崎の前に現れ、田原夫婦をどうしようもない奴等だと思っていたこと、そんな家に子供がいること、その幸せを忘れて赤の他人の自分のあげるなどと言い放ったことへの憤怒を表に出します。

そして「ぼぎわん」が生み出した、膨らんだ自分のお腹を野崎の子だと言い、それを野崎が否定すると、彼女は割れたガラスで腹を突き刺すのです。

生めない女と、生ませなかった男。二人にとっての悪夢が、再度繰り返されたのでした。

〇比嘉琴子

真琴の姉で、日本有数の霊媒師。原作では物語に幕を引くデウスエクスマキナ的な存在。映画でもその役割は健在。ですが、状況が全く違う映画では、幕の引き方は全く違います。

知紗が原作以上に「ぼぎわん」に近いため、「ぼぎわん」を除霊するために、知紗もあちらの世界へ返す判断をします。そのために、原作以上にドライな印象を受けます。

・・・ですが、彼女が原作では知紗を救う判断をしたのは状況判断の結果であり、状況が違えば、知紗もろとも「ぼぎわん」を除霊する判断をする・・・というのは、考えられない話ではないと思いました。つまり、彼女は他の登場人物とは違い、ブレが生じてないとも言えます。彼女のデウスエクスマキナ的な役割がそうさせたのだろうと、そう思います。

〇津田大吾

秀樹の親友の民俗学者。原作の唐草大悟に相当する人物。そして香奈の不倫相手です。

名前も違うし、民俗学者ぐらいしか共通点がない。

原作では香奈にモーションをかけるも、相手にされない冴えない男の印象でしたが・・・チャラ男です。大学教授かお前?てぐらいチャラいです。

秀樹の家庭を呪うのは同じなのですが、理由は原作では家庭を持つことを当たり前だと思う奴等、世間が許せないという、まあ感情は理解できるよ・・・というものから、秀樹なんてただのオモチャで、アイツが得たものを奪っていくのが楽しみだったというドクズな理由になっています。野崎との共通点も、家庭を持つことを当たり前とする存在に対する憎しみから、そのような生をあざ笑う存在としての共通点に変更になっています。

そんな彼は原作の唐草と違い、「ぼぎわん」によって殺されます。

〇逢坂セツ子

霊能力者。原作では琴子の紹介で秀樹と野崎と会うも、「ぼぎわん」の襲撃を受けて落命、それこそが「ぼぎわん」の罠の始まりだった・・・という、「ぼぎわん」の恐ろしさを際立たせる存在。

が、映画では最終的に「ぼぎわん」に敗北するも、琴子以上に終盤の重要な役割の担います。

原作同様に片手を失うものの、「ぼぎわん」との決戦前に再び参戦。さ迷ってた秀樹の魂を鎮め、野崎に””異形との戦いでは生死のはざまでさえ曖昧になる。そこで確かなものは「痛み」だけ””という言葉を残す。この言葉が、野崎の後の行動を決定づける。

 

さて、映画は原作より人の悪性、悪意を焦点に当てていることは、もうおわかりだと思います。特に子供の悪性・・・笑いながら虫を殺す子供のような、純粋ゆえの悪性。「年齢的に」子供である知紗が、「精神的に」子供である大人を破滅させていく物語。救いがなさすぎますが、そうとも取れるお話なのです。

大人のような・・・合理的な判断が取れる故に、知紗を犠牲にしようとした琴子に対して、野崎は「遊び相手が欲しかっただけだ、両親が振り向いてくれないから化け物とだって遊んでしまうんだ!」と泣き叫びながら、知紗を救おうとします。子供を犠牲にすることが正しいとは思えませんし、野崎が一回犯した過ちを考えれば、そういう「癇癪」を起こしても仕方がありません。それに対して琴子は「ならば・・・ちゃんと抱き留めていなさい」と、つまり最後まで責任を持てよと言い、野崎を「ぼぎわん」から引き離します。

そこまで段取りを滅茶苦茶にされても「ぼぎわん」に勝利したらしい琴子のブレなさは置いといて。

ラストシーン。眠る知紗を抱いた真琴と、野崎がベンチに座りながら、これからどうすればいいのかわからないまま、知紗の見てる夢を気にします。真琴が能力で知紗の頭の中をのぞくと・・・

彼女が考えているのは、亡くなった両親でも、守ってくれた野崎や真琴でも、遊び相手だった「ぼぎわん」でもなく。好物のオムライスのことでした。そして流れるオムライスの歌。夢特有の狂気じみたオムライスの世界をバックに、知紗が歌う映像が入ります。それを真琴が野崎に伝えると、彼はシニカルに笑って、「なんじゃそりゃ」とうそぶくのでした。

これで終わりです。「は?」と思われる方もいるかもしれません。でも、原作を読んで、映画を見て、このラストは本当に怖かった。ゾッとしたんです。ナンセンスでもない、アイロニカルでもない。本当に子供が見てそうな、夢。この映画が訴えてきた、子供という存在の悪性、不気味さが結実したラストでした。子供は守るべき存在だということは守ってきた原作に対して、最後で渾身のストレートをブチかます、そんな感じです。

これは原作無視の映画ではありません。監督は原作を読みこんだ上で、映像化にあたってこう「ぼぎわんが、来る」を表現するのだと、叩きつけた作品です。

「ぼぎわんが、」を取ったのも意味があるのです。この作品に出てくるのは「ぼぎわん」らしき”何か”です。この記事では便宜的に「ぼぎわん」で呼んでいますが、原作のように姿は明確に出てこないし、原作より容赦なく殺害を繰り返します。呼ばなければ、来ない。のではなく、「来る」んです。奴は、もう。

 

さて、長々と語ってしまいましたが、ここで筆を置くことにします。あ、最後に。

岡田准一さん、本当に良い演技しますね。