映画「残穢 住んではいけない部屋」感想

時々、思うことがある。私は世の中のホラー、オカルトをエンタメとして享受し、それらがフェイク、フィクション、空想の産物であると理解して接している。しかし。それが「本物」がないという証明にはならないのではないか、と。そして、私はその本物から出た「上澄み」を見ているだけではないのか、と。

 

今回は映画「残穢 住んではいけない部屋」の感想です。原作は未読なので、映画版の設定のみを基準にして感想になります。

 

まず、この映画を見ていて思ったのは、とても人を選ぶ…ホラー自体がまず人を選ぶジャンルではありますが、その中でもさらに人を選ぶ映画ということです。駄作、という評価もあるようですが、それもまあ仕方ないなと思うぐらいには。事故物件で頻発する怪現象!襲い来る恐怖!を求めている人にはオススメできません。今作の恐怖は「来る」ような恐怖ではなく、「既に在る」恐怖だからです。故に、その手のシーンはないとはいいませんが、ほとんどなく、じんわりと、ゆっくりと染み込んでくる恐怖がずっと続きます。その点では緊張感は常にありますが、メリハリは少ない作品といえます。

 

構成も主人公「私」のモキュメンタリーとなっており、怪奇現象が発生するマンションから始まり、その土地の歴史と共に蓄積されていく穢れ、その土地から遥か離れた場所にある根源を追っていく話となります。その歴史は重厚なものであり、映画本編ではついに追いきれないほどでした。一応の区切りまでは追えたのですが、個人的にまだ底が一枚も二枚もあるように思えました。

 

その土地(領域)そのものが穢れている。これは「呪怨」が有名ですが、呪怨がホラー的な「動」でそれを表現した作品なら、これは対極の「静」で表現した作品といえましょう。呪怨はその家に入っただけで呪われる、呪われた人物に関わった人物さえ問答無用で呪われる、その理不尽さが大きな特徴ですが、今作は歴史的な背景と、例えば伽椰子のような中心となる怪異をハッキリさせず、その土地で起こった穢れ全てが姿を変えて法則性もなく「在る」ことで、そしてそれにより命を落とす者から特に何も感じずに過ごす者を幅広く出すことで、住んだだけで呪われる、関わっただけで呪われるという理不尽さを丁寧に排除し、しかしその被害の範囲の広さから、関わった以上は逃れることができないという、怖さの根幹は失っていないのです。

 

作中、主人公「私」の夫はこのようなことを言います。「そんなことで怪異が起こるなら、普通に住める土地なんて存在しない」。その通りで、例えば戦争で大都市が爆撃を受けたこの国ならば、大都市に住んでいれば「人が死んだ土地」からは逃れることができないのです。では、作品の世界も、そして現実の世界も、あらゆる土地は穢れに満ちていて、住んだだけで呪われるかといえばそんなことは決してありません。

 

そこで思ったのが最初の「上澄み」と「本物」の話。作中のある人物が「これはヤバいものを引き当てた」のようなことを言うのですが、作中のマンションのように「本物」への入り口になるようなものが、世界には少ないながらもあり、それは様々な偶然が積み重なった歴史ともいえる穢れ、人にはどうしようもできないものなのではないかと思うのです。人が死んだ数等は関係なく、穢れが積み重なってしまう土地、止められないサイクルが回転している「本物」に触れた場合のみ、呪いが生まれるのではないか、と。

 

主人公「私」が仕事で扱う殆どの怖い話のような「上澄み」は単なる情報であり、人によって加工されたものであり、時間が本質を風化させたものであり、我々が住む殆どの土地のように、無害なものなのでしょう。

 

さて、リング、呪怨、そしてこの残穢の共通点として「感染する恐怖」、つまりは「不幸の手紙」要素がありますが、作中で歴史を追うのをやめた途端に呪いが顕在化したのは果たして尺の都合上なのか、狙ったものだったのか。まるで歴史を調べることで、様々な人が関わるようにすることをやめた途端に用済みといわんばかりです。そしてこうやって感想を書いている私の行動も、作中とリンクし、少しゾッとします。作中で止まった「感染」は、作品を飛び越えて我々の現実まで浸食するのです。この作品を見ている土地は果たして「本物」なのか?それともこの世界の殆どの土地のような無害な土地なのか?事故物件サイトを見てしまうような昏い好奇心、怖い映画を見た子供の時の夜のような、何でもないものが何かに見えてしまう恐怖。

 

「土地」という現実に敷かれたものと、「穢れ」というあるかどうかもわからないもの。その二つが上手く重ねた、こういう形のホラーもいいなと思える作品でした。個人的には、人は選びますが決して駄作ではないと思います。まあ、あの黒人間は別にいなくても良かったのでは…とは思いますが。