【ギンコ・ビローバ】樋口円香の感想と考察 ~樋口円香は何処に行こうというのか~

樋口円香の限定SSR「ギンコ・ビローバ」、Twitterのフォロワーさんで話題になっていたので確保し、トゥルーエンドを見ました。その感想、考察(と言えるレベルなのかは自信ありませんが…)になります。

まず言います。樋口円香を知る人間には2種類います。それは、このSSRのトゥルーである「銀」のコミュを知る者と、そうでない者。

このSSRのトゥルーはそれだけの隔絶の力があります。

樋口円香のようなタイプのキャラクター、定型的な言い方をすると、ツンデレ、クーデレでしょうか、は多く存在します。同じアイマスで言うなら千早なんかが近いでしょう。実際、彼女のプロデュースして昔の千早を思い出した人も多いのではないでしょうか。僕もそうでした。しかし、樋口円香は、”まだ”2枚目のSSRの終点である「銀」で樋口円香という絶対無二の存在を手に入れたと言って良いでしょう。

「ギンコ・ビローバ」の固有コミュが5個あり、そこにある共通項は言葉と沈黙、真(信)と偽です。その視点から、一つずつ見ていきたいと思います。

「囀」、さえずる。

言葉と信、それはプロデューサーの鼻歌←→沈黙と偽、それは樋口円香の鼻歌

昼休みに取引先との会話のタネのために料理をするプロデューサーが思わず鼻歌を歌っていると、それを樋口円香に聴かれるというコミュ。プロデューサーの鼻歌は心から自然に出たものであり、信なるものです。それに対する樋口円香の、プロデューサーの歌を模倣した偽の鼻歌は、誰にも聞こえない(選択肢次第でプレイヤーにだけわかる)沈黙と同義のものです。「歌いたい時に歌っていいのは小鳥だけ」。このコミュで樋口円香は言いますが、プロデューサーがその歌いたい時だったのに対して、彼女の途切れ途切れの鼻歌は果たして歌いたいから歌ったものなのでしょうか?彼女にとって歌自体はどうでもよく、プロデューサーの模倣がしたいだけだったのかもしれません。料理という行動よりも歌という言葉を模倣する。彼女が沈黙と同じぐらいに言葉を大切にする、ということがわかります。

「信」、しんじる。

言葉と信、それはプロデューサーの反応←→沈黙と偽、それは樋口円香の反応

偶然電車で樋口円香の元クラスメートの噂話を聞いてしまうというコミュ。

まずこの元クラスメートが本当に元クラスメートなのかわからない上に、その噂話がどこまで本当かわかりません。それを真だと前提した上で、プロデューサーと樋口円香が通話アプリでやり取りします。

プロデューサーの反応はその立場の上でいたって普通の反応で、対応もスマートです。車両を変えようと提案する、樋口円香が噂話を気に”していない”ではなく気に”ならない”かを探る、問題ないと思ったら干渉をやめる。それは全て樋口円香というアイドルを心配した、真なる行動で、彼女に対する信を示す行動です。その心配(つまり干渉)に対して樋口円香は自分の代弁者になるな、何も知らない、これからも知ることはない”と心配に対する沈黙をもって対応します。選択肢次第では、元クラスメート(仮)が電車を降りて行った後に、彼女が一言だけ噂話に訂正を加えます。プロデューサーは寝る(干渉を終える)、と言ったにも関わらず。それは、噂話の中の、元クラスメートではなく、自分の発言についての訂正でした。彼女は自分が言った言葉を大切にするが故に、どうしてもそこだけは訂正したかった。偶然車両が同じだけだった、元クラスメート(仮)の噂話”ごとき”で、寝てることになっている相手に、思わず訂正したその言葉は、とても空虚で、偽りに思えました。しかし、それに対してプロデューサーは「信じる」と断言するのです。寝てたはずなのに。思わず出た言葉なのに、この言葉には真と信が満ちていて、その対比が浮き彫りとなっています。

「噤」。つぐむ。

沈黙と真、それは映画の感想←→言葉と偽、それも映画の感想

関係者との付き合いで映画の試写に招待されたプロデューサーと樋口円香のコミュ。

3つ目のコミュにて「転」が訪れ、このコミュは言葉が偽りで、沈黙こそが真であり信である構成になっています。

このコミュのポイントは、関係者と前で樋口円香が語った映画の感想は、果たして彼女の率直な感想なのか?ということです。彼女は「言葉では言い表せないぐらい素晴らしかった」と感想の初めに言いますが、それだけは彼女の率直な感想なのでしょう。プロデューサーの前で「あの映画は感想を言葉にしなくていい時に見たかった」と言います。それでも招待した関係者の前なので、言葉を大切にする彼女は、まず率直な感想を言った。そして、それから具体的な映画の内容について言及した。それは言いたくなかったもの、本来なら樋口円香から生まれなかったもの、偽、です。樋口円香にとって映画自体はとても面白かったのでしょう。しかし、言葉の大切さと同時に沈黙すること、外に発しないことの大切さを知っている彼女の在り方が、真なる言葉から偽なる言葉に繋がる映画の感想が生まれたのです。「大切なものだからこそ、口にはしない」。それでもプロデューサーと付き合いを優先して、その大切なものを覆した。彼女なりの誠意、信がそこにあったのです。偽なる言葉には信なる思いがある。最初の「囀」コミュと同じ構造なのです。

「偽」。いつわり。

沈黙と真、それはアドバイス←→言葉と偽、それは励まし

同じオーディションに出るアイドルの子を樋口円香が励ましているのをプロデューサーが見るというコミュ。

共通コミュ「二酸化炭素濃度の話」で、オーディションの控室で感情的になるアイドルを冷ややかに見ていた樋口円香。そこにある感情自体は、何も結果に影響しない。ただ、控室の二酸化炭素の濃度が上がるだけ。息苦しい。そんな彼女が、アイドルにアドバイスをします、「願いは叶う」と。その言葉は彼女の真ではなく偽ですが、アドバイスという行為自体は相手のことを考えて適切な言葉を送ることに徹しているので、真(信)なる行為なのです。「願いは叶わない、適当に生きる方が楽」。それが彼女の本音。そう伝え、突き放すことも可能だった。とはいえ、励ます相手も自分と同じアイドル。そんな”アドバイス”ではなく、オーディションに立ち向かうための励ましが必要なのはわかってるから、それが偽でも励ましになる言葉を選んだ。これは樋口円香なりの”アイドルという同族意識”、共通コミュ「心臓を握る」で見せた恐怖を知った彼女だからこそ、だと思います。「アイドルというだけで、こんな寒空で薄着をさせられている。周りは身を守る服ばかりなのに」と樋口円香は言う。そう、結局矢面に立つのは最後はアイドル。プロデューサーといえど、結局は後ろで見守るしかない。

”では、プロデューサーの励ましは、その土台が本音と信頼とに基づいていたとしても、それは真なのか?矢面に一緒に立つユニットの仲間ではないのだから、窮極的には偽に陥るのではないか?”ノクチルという仲良しユニットの所属する、樋口円香が言うと、シャニPというアバターを貫通して、プレイヤーに冷たいリアリティを突き付けてきます。

選択肢次第で登場する「たぶん」というワードも、樋口円香が言葉に誠実であるという事実を抽象化するために用いられるのではなく、結局、「たぶん」しか言えない、矢面に立たないプロデューサーに対する樋口円香が持つ冷たさを表したものなかもしれません。そして、決して彼女の真意には届かず、「たぶん」を考え続けるプレイヤーの背中をなぞるような冷たさでもあります。

 

「銀」。それだけでは、ぎん。鉱物、色の一種。そう、それだけでは。

沈黙、偽----------言葉----真実---→毒。

この「ギンコ・ビローバ」最後のコミュ。

SSRの名前にもなっているイチョウがやっと登場します。銀杏。なのにコミュの名前は銀の一字。これ以外のコミュに合わせて一字にしたのか?いいえ、違います。このコミュの名前を「銀」にするために、これ以前のコミュは一字となったのです。そしてこれまでのコミュ全てが、樋口円香の最後の独白を猛毒にするためも布石だったのです。

まるでバイナリー兵器(別々の無毒な物質が合成された途端に猛毒に変化する化学兵器)のように、たった数行の独白と、これまでのコミュが混ざった瞬間にシャニP”ではなく”、我々プレイヤーに猛毒が注入されるのです。

 

樋口円香のために頑張りを積み重ねるプロデューサー

                      言葉を大切にする彼女

沈黙さえ言葉なき言葉にする彼女

                    本当に大切なことは口にしない彼女

アイドルとプロデューサー、一つのように見えて違う立場にいる二人

 

『あなたは』『愚直で』『スーツも』『折り目正しく』『美しい』『ああ』『ぐちゃぐちゃに引き裂かれてしまえばいいのに』

 

このコミュはWINGで優勝したら見ることができるコミュです。そう、「感謝している」「お疲れ様でした、”プロデューサー”」のWING優勝コミュの後にこれを見せられるのです。大きな目標を達成させてくれた、美しいと感じる存在に、他人のような”危機感”を抱き、警戒し、それが破綻することさえ望む、この少女は一体何なのでしょうか。

樋口円香の独白の前に、シャニPが言います。

「身の丈に合わないところまで精一杯『プロデューサー』でありたいって務めているだけ」

「立派な肩書をもらっても……形だけだから、結局何をするでしか語れないんだ」

「だから俺は頑張るしかないんだよ」

アイドルマスターというコンテンツは、ファンのことをプロデューサーを呼び、そのロールプレイを大なり小なり誰もがしていると思っています。このシャニPの言葉は、ゲーム内で立ち回るシャニP自身のことだけではなく、それらをメタ的に見つめているプレイヤー、”プロデューサー”という存在をも示しているようで。我々、”プロデューサー”は他人に対してそれであることを示す時は、アイドルの管理を実際するわけではなく、「このアイドルの担当Pで在りたい」「このアイドルに対して何かをしている」ということでしか示せません。実際のプロデューサーは現実に運営側にいるのですから。だから頑張るしかない。熱意を示すしかない。それは美しいと思います。好きなことに打ち込んでいる姿を互いに称賛することが、アイドルマスターのコミュニティを支えている一つの柱だと思っています。

しかしその姿を見て、言葉を大切にする樋口円香が出した言葉は上記にある通り。これが何の感情なのかは、正なのか負なのか、愛なのか憎しみなのか、羨望なのか侮蔑なのか。それは各人の受け取り方次第でしょう。個人的には、”質量の大きい感情”と名付けましたが。問題はこれはゲーム内ではシャニPに発せられた言葉ですが、シャニPには聞こえていないと思われることです。この独白を知るのは、樋口円香と”貴方”だけ。

沈黙は金、雄弁は

銀は毒に反応するということで昔は食器に利用された鉱物

銀の弾丸は致命的な一撃を示す

銀杏(イチョウ花言葉には鎮魂

銀杏(ぎんなん)には毒が含まれている

漏れ出てしまった樋口円香の独白は、シャニPというアイドルマスターシリーズでも自己投影が薄いアバターを貫通して、独白を知る特権を逆流し、プレイヤーである”プロデューサー”に襲い掛かる。

 

私は、”貴方”は、知ってしまったのだ。

 

ちなみにこのギンコ・ビローバの絵、樋口円香はシャニPとは背中合わせの構図になり、まるでこちらを見ているかのような絵となっています。たぶんね。

 

さて、ここまで読んでいただいた方、長文にお付き合いいただきありがとうございました。デレやミリに比べて、プレイヤーからの独立性が高いシャニPですが、このSSRで樋口円香をシャニPに委ねるしかなくなったかな、と思いました。デレの夢見りあむはまだ笑って済ませられるブレイカーでしたが、この樋口円香のコミュはさすがに笑えませんでした。根がね、深いんですよ…。

 

2021.2.18 少し修正と追記。

 

 

 

 

映画「残穢 住んではいけない部屋」感想

時々、思うことがある。私は世の中のホラー、オカルトをエンタメとして享受し、それらがフェイク、フィクション、空想の産物であると理解して接している。しかし。それが「本物」がないという証明にはならないのではないか、と。そして、私はその本物から出た「上澄み」を見ているだけではないのか、と。

 

今回は映画「残穢 住んではいけない部屋」の感想です。原作は未読なので、映画版の設定のみを基準にして感想になります。

 

まず、この映画を見ていて思ったのは、とても人を選ぶ…ホラー自体がまず人を選ぶジャンルではありますが、その中でもさらに人を選ぶ映画ということです。駄作、という評価もあるようですが、それもまあ仕方ないなと思うぐらいには。事故物件で頻発する怪現象!襲い来る恐怖!を求めている人にはオススメできません。今作の恐怖は「来る」ような恐怖ではなく、「既に在る」恐怖だからです。故に、その手のシーンはないとはいいませんが、ほとんどなく、じんわりと、ゆっくりと染み込んでくる恐怖がずっと続きます。その点では緊張感は常にありますが、メリハリは少ない作品といえます。

 

構成も主人公「私」のモキュメンタリーとなっており、怪奇現象が発生するマンションから始まり、その土地の歴史と共に蓄積されていく穢れ、その土地から遥か離れた場所にある根源を追っていく話となります。その歴史は重厚なものであり、映画本編ではついに追いきれないほどでした。一応の区切りまでは追えたのですが、個人的にまだ底が一枚も二枚もあるように思えました。

 

その土地(領域)そのものが穢れている。これは「呪怨」が有名ですが、呪怨がホラー的な「動」でそれを表現した作品なら、これは対極の「静」で表現した作品といえましょう。呪怨はその家に入っただけで呪われる、呪われた人物に関わった人物さえ問答無用で呪われる、その理不尽さが大きな特徴ですが、今作は歴史的な背景と、例えば伽椰子のような中心となる怪異をハッキリさせず、その土地で起こった穢れ全てが姿を変えて法則性もなく「在る」ことで、そしてそれにより命を落とす者から特に何も感じずに過ごす者を幅広く出すことで、住んだだけで呪われる、関わっただけで呪われるという理不尽さを丁寧に排除し、しかしその被害の範囲の広さから、関わった以上は逃れることができないという、怖さの根幹は失っていないのです。

 

作中、主人公「私」の夫はこのようなことを言います。「そんなことで怪異が起こるなら、普通に住める土地なんて存在しない」。その通りで、例えば戦争で大都市が爆撃を受けたこの国ならば、大都市に住んでいれば「人が死んだ土地」からは逃れることができないのです。では、作品の世界も、そして現実の世界も、あらゆる土地は穢れに満ちていて、住んだだけで呪われるかといえばそんなことは決してありません。

 

そこで思ったのが最初の「上澄み」と「本物」の話。作中のある人物が「これはヤバいものを引き当てた」のようなことを言うのですが、作中のマンションのように「本物」への入り口になるようなものが、世界には少ないながらもあり、それは様々な偶然が積み重なった歴史ともいえる穢れ、人にはどうしようもできないものなのではないかと思うのです。人が死んだ数等は関係なく、穢れが積み重なってしまう土地、止められないサイクルが回転している「本物」に触れた場合のみ、呪いが生まれるのではないか、と。

 

主人公「私」が仕事で扱う殆どの怖い話のような「上澄み」は単なる情報であり、人によって加工されたものであり、時間が本質を風化させたものであり、我々が住む殆どの土地のように、無害なものなのでしょう。

 

さて、リング、呪怨、そしてこの残穢の共通点として「感染する恐怖」、つまりは「不幸の手紙」要素がありますが、作中で歴史を追うのをやめた途端に呪いが顕在化したのは果たして尺の都合上なのか、狙ったものだったのか。まるで歴史を調べることで、様々な人が関わるようにすることをやめた途端に用済みといわんばかりです。そしてこうやって感想を書いている私の行動も、作中とリンクし、少しゾッとします。作中で止まった「感染」は、作品を飛び越えて我々の現実まで浸食するのです。この作品を見ている土地は果たして「本物」なのか?それともこの世界の殆どの土地のような無害な土地なのか?事故物件サイトを見てしまうような昏い好奇心、怖い映画を見た子供の時の夜のような、何でもないものが何かに見えてしまう恐怖。

 

「土地」という現実に敷かれたものと、「穢れ」というあるかどうかもわからないもの。その二つが上手く重ねた、こういう形のホラーもいいなと思える作品でした。個人的には、人は選びますが決して駄作ではないと思います。まあ、あの黒人間は別にいなくても良かったのでは…とは思いますが。

 

「クルリウタ」ドラマCD考察

その予想以上の凄惨な内容と、救いのない結末で話題となっているTC第3弾「クルリウタ」のドラマCDを聴いたので、考察というか思ったことをつらつらと。ネタバレありなので聴いてない方はご注意を。

 

〇「クルリウタ」は誰視点の歌なのか?

僕は最初この歌は千鶴が演ずる女主人の視点で、美しい蝶の中でうごめく蜘蛛に苦しむ心情を唄った歌だと思っていました。それも全くの間違いないとは思いますが、ドラマCDで特大の重要人物になった女主人の娘の視点の歌なのではないかと。

 

〇「女主人の娘」

クルリウタのドラマCDは彼女を中心に動いていきます。そう、「女主人の娘」が誰であろうと最初から最後まで。

・女主人の娘は、女主人の言うことをきかねばならない。

・女主人の娘は、女主人に隠し事をしてはならない。

・守れない場合、「女主人の娘」は解任となり、メイドの志保に処理される。

・空席となった場合、遭難者等の人間がいれば一人が選出される。

これがこの役割のルールです。このドラマCDは伊織が処理され、茜と交代する一連の流れでした。

これを踏まえてクルリウタの一番の歌詞を見ると、自身に巣食う邪悪を嘆く歌ではなく、この世の道理から逸脱したとしても、処理されたくないために凶行を犯す心情を唄った歌になるのです。

 

〇ヨモツヘグリ

まず言ってしまうと、女主人はもうこの世のものではないですし、志保や伊織も同様で、孤島はそういうテクスチャを貼った「異界」です。

まず茜たちに出会った志保が『「人が」来るのは久々」と言います。本来、人が立ち寄るべき場所ではないところに人がいるということです。ただ、「人」、この世のものだと認識はしているわけです。志保はもうこの世のものではありませんが、狂気に侵されているとはいえば、半分は正気を保っているといえるでしょう。

さらに、見た感じよりかなり広い島であることが歌織先生との探索で明らかになっていますが、それもそのはず異界であるので、そういうテクスチャがあるだけで、実際は集落にたどり着けるかどうかも怪しいですし、ボートで外洋に出ることも不可能でしょう。本土からの定期便もそういうNPCがあるだけで、何も運んではこないし、連れて行ってくれることもありません。

「異界」にはルールが基本的に存在します。この世にこの世の法則があるように、異界という一つの世界にも法則があるのです。

一つ。この異界の絶対命令権は女主人にある。

一つ。その絶対命令権を行使と維持には「食事」が必要である。

一つ。女主人には強度の認識障害がかかっている。

最初のは異界の主が女主人なので、女主人の思いのままであるということ。

次は、その異界への取り込みの分水嶺が「食事」であるということ。おそらく、異界側に踏み込んだ(律子のような「見てしまった」も含まれる)者の血肉を使用するという付帯条件もあるということ。

最後は、女主人は、特に自分の娘には強度の認識障害がかかっているということ。だから「娘」が志保から茜に代わったとことで延々と同じことを繰り返すのです。

 

〇メイドの志保はどういう存在か?

彼女はおそらく女主人千鶴の「本当の娘」です。

この繰り返す「娘」のループの始まり、旦那と娘を失った女主人が狂気の果てに異界を作り、認識障害に陥った千鶴は志保を娘と認識できず、代わりに彼女を館で働く娘と認識し、「メイド」の役割を付与し、異界の一部としたのです。

志保が強い義務感を持って凶行を行っているのも、もし自分がメイドの役割さえ仕損じて処理されたら、後に残る千鶴という母親が残すだろうさらなる地獄を作らないため、娘としての最後の責任感として犠牲者を増やし続けている・・・もう一度言います、「クルリウタ」は「女主人の娘の歌」なのです。

 

〇オレンジのガーベラ

女主人の娘の伊織が訪れていた墓場。女主人にも秘密のこの場所にある無数の墓標。そこに添えられていた花は、「オレンジのガーベラ」の花言葉「我慢強さ」。

女主人の娘を強要された娘達の我慢強さの果てに散っていった者への手向け・・

なんてものではありません。ガーベラには別に薔薇のような「怖い花言葉」は全くないのです。「忍耐強く前に進んでいく我慢強さ」という意味。そこに眠るのが先代の娘にしろ、犠牲者にしろ、ちぐはぐな印象を受けます。

そう、伊織演じる女主人の娘はこの袋小路の状況にも関わらず、自分が我慢すればいつか報われる時が来ると信じているのです。客観的にみても、物語の登場人物の志保からしても、この異界に取り込まれた時点でどうしようもないことがわかるのに、です。

それは一輪の花のような希望なのか。

それは一輪の花のような孤独な狂気なのか。

それは一輪の花に感じる少しの安らぎなのか。

個人的にはこの墓地のシーンがクルリウタで最も重要なシーンだと思います。解釈も多々ありましょうが、自分は「哀れな狂気の残り香」のように感じました。

 

〇脱出は可能だったのか

プロローグとエピローグのラジオを聴いていると、伊織が囚われた時と茜がそうなった時では、かなりの時間が空いていることがわかります。この異界の時間は外界と比較して静止しているに等しいのでしょう。

電波の話が劇中に登場していますが、この異界、電波は通じているのです。おそらく送信は不可能で受信は可能という代物で、そもそも「電波塔」さえあるのかわかりません。

そのラジオでは伊織も茜達も「行方不明」とされていることがわかります。要するに死んでいる扱いです。

ここで仮定の話をしましょう。

電波が通じる→外界への接点がある、通り道がどこかにあるとして、

・「食事」を取らずにヨモツヘグリを回避する

・異界に深入りしない

を徹底して館から脱出、追っ手の志保も回避して外界への繋がりである「電波塔」に到達したとしましょう。そこで彼女達は何を見るのか?

ふたつ。

一つ、彼女達が外界でまだ生きている場合は脱出の扉。

一つ、彼女達が既に死んでいる場合は自分たちは既にこの世のものではないことを示す事実。

個人的には後者かと思います。つまり孤島に来た時点で彼女は既に死んでいて、

本来行くべきだった天国への道から、この世とあの世の境界線上に存在するこの孤島に「取り込まれた」。彼女達の魂はもうどこにも行けない。だから、墓もこの孤島にあるのです。

 

とまあ、こんな感じで考えをまとめていると、本当に救いのない話ですね・・・。

まあ、ホラーとしては割合ある救いのなさなのですが、アイマスのドラマCDでこれをやるのは確かに画期的(?)ではありました。

というか、サスペンスは?どこ行った?

個人的にはクローズドサークルの連続殺人だと思っていたので、ここまでホラーに捉えられるような方向に傾くとは思いませんでした。

 

では、最後に。このドラマCDに出演している島原エレナは太陽みたいな明るさ、茜に見せたような優しさでアイドルとして輝いている娘です。気になった方は是非彼女をプロデュースしてみてはいかかでしょうか。

 

モバマス・リフレッシュルーム”Let's speak English♪♪"全文訳

リフレッシュルームで私の担当のメアリー・コクランが出てきて、しかもバリバリ英語話すので嬉しくなって全文訳をしてみました。意訳、誤訳はあるかもだけど、ご勘弁。

 

志希「あー、終わったー!今年のお仕事はおしまい♪」

ケイト「ええ(Good news=朗報だが、肯定的な相槌として処理)!たくさんの新年の番組で最近忙しかったデス」

メアリー「でもそのおかげで、こんなに可愛い着物を着れたワ♪」「それで、どうかしら?似合っている?(flatter=物が主語で、よく見せるの意。ちなみに英検2級レベルの単語)」

ケイト「ええ、とっても!とても似合ってるワ!」

志希「着物もだけど匂いもいいね♪これは多分・・・桜かな?

メアリー「Exactlly(その通りでございます)♪魅力的な女性は香水を使うものでショ?」

志希「そうだね。・・・それこそケイトみたいにね♪」「ケイトも香水をつけているの?とっても良い匂いがする!」

ケイト「いいえ、香水ではなくて。このカメリア(椿のこと)ですネ」

メアリー「ということは、本物の花?とても美しいワ!」

ケイト「ありがトウ♪ところで・・・裕子はどこに?」

裕子「みなさーん!」

裕子「裕子です!イエーイ!」

メアリー「裕子、遅いわね。何かあったノ?」

裕子「はい、大きな出来事がありました!そこでセールをやっていて、沢山のお餅が売っていたんです!」

ケイト「ああ、なるほど。お餅のバーゲンセールを見つけたのですネ?」

裕子「その通り!マイサイキック・デスティニー!(翻訳不能)とてもイッパーイ買いました!」

志希「それで、沢山お餅を買ったと・・・それで、その手のものは・・・?」

裕子「鏡餅です!私のサイキックを封じ込めました!プロデューサーにあげるつもりです!」

メアリー「それはいいわネ!日本のお餅は私も大好きよ」

ケイト「私もデス。日本の文化はとても興味深いですネ!」

「例えば、大晦日に鐘をつくこととか・・・あと日本料理も!(all the special dishes=おせち料理の可能性もあります)」

志希「うん、異なる文化の比較は面白いよね~。その起源を追うのも」

裕子「うん、うん、うん!とても面白いですよね!」

志希「ところで、ケイトはお休みの間は何するの?イギリスに帰るのかな?」

ケイト「いいえ、日本にいまス。実は、家族が日本に来るんデス♪」

メアリー「本当!?良かったわネ、ケイト♪」

ケイト「ありがとう、メアリー。日本の新年を一緒に楽しみたいと思いまス♪」「私の家族は外国の文化が好きで、例えば、時々ロンドンの中華街に一緒に行ったりするんですヨ」

裕子「おお、中華街!とても面白い!ドンチャン、ドンチャン(翻訳不可)」

志希「そういうので面白い話といえば・・・留学中に見た大きな花火もかなー」

メアリー「私の故郷にもあったワ!大晦日は毎年花火とパーティーがあったのヨ」「パパとママが時々連れて行ってくれたワ。ちょっと懐かしいわネ♪」

ケイト「メアリーの国(region=地域)では他に風習はあったのですカ?」

メアリー「ええ!12時ちょうどに隣の人キスするのヨ。私もやったことあるワ♪」

裕子「キ、キキ、キス!?メアリーちゃんのすごいスクープです!あわわわわ・・・!」

メアリー「もちろんよ、いつもパパやママ、シスターとしてたけどネ♪」

志希「いいねえ、日本ではしないのかしら?」

ケイト「・・・あ、すいません!空港に行かないト!もうすぐ家族が到着するのデス」

メアリー「それじゃ、私も行こうかしラ。私の着物姿の写真を家族と話すノ!(famillyとはないが、文脈的に対象は家族と思われる)」

志希「私も行かなきゃ。今年中にやっておきたい実験が何個かあるんだよね♪」

裕子「私もです!プロデューサーを探します!・・・はっ!これは日本語!」

ケイト「裕子、あともう少しデスよ♪みんなと話せて良かったワ」

メアリー「次会うのは来年かしら?ちょっと寂しいわネ・・・」

裕子「問題ありません!新年はあっという間に来ますよ!ああっ、これも日本語だ~っ!!」

志希「まーまー、最後までノっていって♪じゃあ・・・お元気で、風邪を引かないようにね!」

全員「よいお年を♪」

 

英語を話すメアリー・コクランいいよね

残された手札がジョーカーならば、ゲームは上がれない 〜映画「ジョーカー」感想〜

" 酒が人をアカンようにするのではなく、その人が元々アカン人だというのを酒が暴く"


いつか聞いた格言だ。切っ掛けそのものに善悪はなく、切っ掛けによって現れるものが悪性であるのだ。では、「元々」とは?誰しもが悪性を抱えている。悪性がない人間がいるとするならば、その存在そのものが悪性だ。切っ掛けはそこら中に転がっている。個人と社会、富む者と貧する者、才能がある者とない者、運が良い者もない者、出会いに恵まれていた者と恵まれなかった者。どの天秤が崩れても、どれもが欠けても、人は誰しも"彼"に陥る。鍛え上げた肉体もなく、目からビームも出ず、古代の英雄の血を引くものでもない。ただ我慢することをやめた、一人の男に。


映画「ジョーカー」を見た。公開前から色々と騒がれ、あのダークナイトに並ぶ傑物が出たと話題の映画を。言ってしまえば、一人の冴えない男が不運と生まれの不幸を知り、追い詰められ、誰からも助けてもらえず、我慢をやめた。それだけの映画だ。

ただ、"それだけ"なのが、我々は彼の着地点を知ってしまってるが故に、どうそこに行き着くかを期待してしまう。ピエロを見るかのように。そこを丹念に、アーサーの手札をどんどん奪っていく。仕事、母親、コメディアンへの憧れ。彼を繋ぎとめていた手札はどんどん捨て札となる。そして最後に残ったのがジョーカーのカード。切り札ではあるが、それが残ってしまうと、もう上がりはない。ただ、それが人生だ。スヌーピーも言っていただろう、"配られたカードで勝負するしかない"って。そのカードが捨て札とジョーカーしかなかった。"それだけ"だ。


さて、映画の話であるが、現代社会がどうとかは置いといて、一人のヴィランの誕生の物語として、これだけの映画を提供した、というのは確かにアメコミ映画史上に残ることである(ニワカの私が言うのはおこがましいかもしれないが)。逆に言えば、ジョーカーはやっとダークナイトから解放されて、"今後数年のジョーカー像と引き換えに"新たなジョーカーを打ち立てることに成功した。そういう話なので、バットマンの過去作を漁る必要はないが、ゴッサムシティやブルースという少年が気になったら近年のバットマン作品を見てみるのも良いかもしれない。


最初に悪性の話をしたが、感情移入をさせないためか、問題提起のためか、アーサー自体に問題があるようにしている。彼の手札からジョーカーが浮上したのは、偶々手に入れた拳銃の存在だが、それこそ最初の酒の格言に通じる。彼は善人ではない。我慢しているだけだ。その蓋を、拳銃という"力"がまずこじ開けた。それから拳銃に関わるミスで仕事を失い、拳銃で初めての殺人を犯す。アーサーの段階が進むたびに、たった一丁の拳銃がその存在を強く主張するのだ。……話はそれるが、天気の子の拳銃の使い方がド下手だったために、たった一丁の拳銃の重みを、治安最悪のゴッサムシティで、銃社会アメリカで表現できるのかと驚いたのだ。


劇中ではこれでもかというぐらい、"病的な"笑いが登場する。では、「彼」が、本当に笑った時はいつか?それは最後にあるコメディアンを撃ち殺した時だ。彼の人生に初めて愉快なオチがついた瞬間。それから彼は、本当の笑いが混ざるようになった。あの瞬間、アーサーとジョーカーの垣根は消え、二人は溶け合ったのだと思う。そして最後、パトカーの上で、熱狂した民衆に囲まれて、彼はアーサーではなく、完全にジョーカーとして目覚めたのだ。"この口の傷の話"が結実した、あの瞬間のための映画といっても過言ではない。


そしてラストシーンは本当に感心した。病棟で人殺しをしたジョーカーが職員に追いかけられるシーン。続く廊下の向こうのT字路が"まるでコマ割りのように"。愉快に職員とジョーカーが追いかけっこ。アメコミだ。これはアメコミなんだ。そう、我々をまるでアメコミの枠を超えた映画から、原点に回帰させたのだ。そして、The END。コメディはオチが大事だが、これ以上ないオチだったと思う。


いや、長くなった。コメディアンといえばウォッチメンあいつだよねとか書きたいが、まあいいだろう。別世界のジョーカーが戦ってるし。ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。ジョーカー、面白い映画とは言い難いですが、傑作ですよ。




「再演」の結実 〜ミリオンライブSSA公演2日目感想〜

所恵美役の藤井ゆきよさんは最後のコメントでこう仰いました。


"これは個人戦ではなく団体戦"


"トチっても仲間が助けてくれる"


僕が今回の再演を見て感じたことを、ゆきよさんが簡潔かつ全部言ってくれました。


団体戦なのでソロ曲はありません。ただ、イルミネーションが可能なユニットが二つもあり、そのユニットが再演で集う。なら、例外としてソロ曲を歌おう。ただし、そのユニットの皆で。フェスタ・イルミネーションを。フェスタとはお祭りの意味で、まさに巡り合わせの曲と言える。ちゃんとまつり姫にも花を持たせる気遣いも忘れない。


トチっても、とゆきよさんは仰っていましたが、彼女が演じた夜想令嬢は、SSAという舞台を得て、そして再演という機会を得て、さらなる進化を遂げていました。トチるだなんてとんでもない、そう思える程の。


2日目はSSAという舞台を、特に地方公演にはなかった花道を上手く利用していたと思う。夜想令嬢の昏い旅路を行く朋花を上手く表現して、カメラワークもバッチリで、これはLVでちゃんと見れて良かったなと思った。花道をアンドロイドらしく機械的に歩くEscape、仲良く手を繋ぐシャルシャロ、元気よくかける未来。再演の舞台、SSAだからこそ表現できたことだ。


1人も手放さない。それはこのミリオンライブの信条の一つだ。それはゲームの中で、機会均等を目指すものだと思っていた。しかし、この団体戦を完璧に完遂した今、それだけではない。手放さないどころか、全員が硬く手を握り合って、一つの大きな目標を完遂させることでもあったのだ。それはゲームコンテンツのライブとかそういうの飛び越えて、人間的に美しい。昨日も書いたが、声優さんには脱帽して頭が下がるばかりである。


ただ、そんな声優さんが我々あってこそと繰り返し、プロデュースお願いしますという。商業的なこととかは置いといて、素直に応援したくなる。その真っ直ぐな思いまで斜に構えたくはない。


話が逸れた気がする。とにかく、ミリオンライブのゲームを越えた素晴らしさを実感し、応援を続けたくなる2日間だった。では、締めの言葉として担当の島原エレナだけではなく、ミリオンライブ全てにこれを送りたい。


"出会ってくれて、ありがとう"


「再演」の意味 〜ミリオンライブ SSA公演1日目感想〜

ミリオンライブ 6thのHPには、こうある。

"単独タイプ別で地方を巡ったユニットたちの再演が決定!"

そう、SSA公演は再演、Reactなのだ。我々ファンが望んだ再集合だけではなく、演者さんの方々にとっても、「もう一度」だった。

セトリ自体は地方ツアー時をほとんど踏襲していた。一部のユニットを除き、カバー曲も同じであった。もちろん、地方ツアー時は出会うことのなかった夢の共演、アライブファクター等のサプライズも用意されており、flyersも披露され、とても満足のいくライブであった。しかし、セトリを踏襲した意味気付いたのは、自分の担当である島原エレナを演じる角元明日香さんの言葉だった。

気付いてはいたのだ。Cleaskyがカバーする「笑って」の時の、角元さんの演技が、CleaskyのドラマCD内に登場する島原エレナではなく、本来の島原エレナに寄せていたことに。特に笑うところは、そのまんまアイドルの島原エレナであったと言っていい。そんな角元さんが2回目ということで、プレッシャーからある程度解放され、自由に演じることにしたとコメントした時に、この公演の意味に気付いたのだ。 

再演は、何も同じ事を繰り返すのではない。1回目があった以上、ミリオンの声優の方々はそれぞれに思ったことがあり、本来ならいつ来るかわからない次の歌唱の時の宿題があったのだ。このSpecialな公演は、その宿題を果たす機会だったのだ。我々が望み、アイドルを演じる声優さんかこれに応える。これがアイドルマスターだった。

個人的にジュリア役の愛美さんが、飄々と(?)語ってはいたが、そのプレッシャーがとても大きく、しかし静香役の田所あずざさんのおかげで自由になれたと語っていたことが驚きだった。同時に今回はアコースティックをしなかった理由もわかった。何もプレッシャーだけではない。Jelly pop beansはサプライズ返しという再演を見せたし、和太鼓やタップダンスの方々との連携も発展させていた。

ちなみに一番私の涙腺に来たのは、絶対に泣く印象があった、戸田めぐみさんが最後まで涙を我慢したことである。

今回の公演は、もちろん尊みもあり、素晴らしさもあり、最高もあった。しかし思うに、それはプロフェッショナルの方々がプロフェッショナルの仕事を完遂した、当然の結果である。ミリオンライブの声優さんへの尊敬の念が深まるライブだった。そして彼女達の同僚を超えた仲間という関係に、畏敬の念を覚えた。

明日は2日目。明日はどんな"再演"を見せてくれるのだろう。楽しみである。

最後に。野々原茜役の小笠原早紀さんの復帰に感謝を。貴女のfruity loveが聴けて良かった。貴女なしでは成立しない再演でした。