キングオブモンスターズ ~アメリカ全力パンチの怪獣映画~

ゴジラ キングオブモンスターズ(以下KOM)、早速見てきました。その感想の記事となります。ネタバレです。未鑑賞の方は今すぐブラウザを閉じて映画館へGO。

 

 

 

 

さて、まずは。

最高。もう本当にこれ。

予告編での期待値を遥かに超える面白さでした。

GODZILLA」、「髑髏島の巨神」を経た今作で、ハリウッド版ゴジラ(というか、モンスターバース)は一つの到達点に達したと断言できます。

当たり前ですが、これはアメリカが作ったゴジラです。ここが重要なのです。良くも悪くもアメリカらしい怪獣への対応と家族ドラマを経た「GODZILLA」。第二次世界大戦からベトナム戦争へ至るアメリカと、その同盟国日本が過ごした戦争の時代の中で、その中で生まれる狂気とロマンを怪獣と上手く融合させた「髑髏島の巨神」。そして今作KOMに至り、ついに日本が生み出した怪獣ゴジラへのリスペクトと、米国が持つ世界観と呼ぶべきものが、怒涛のスケールで融合し・・・これは個人的な感想ですが、虚淵ゴジラ三部作で割合絶望的な気分になっていた日本人の僕の顔面を殴り飛ばしてきたのです。

最初のシーンは「GODZILLA」のサンフランシスコである家族を起こった悲劇・・・かと思いきや、同作であれ程勿体ぶっていたゴジラの咆哮をいきなり流し、ビルを破壊するゴジラが登場します。このシーンだけで「家族ドラマと怪獣映画の配分はこんな感じだからな?」というメッセージを感じさせます。

GODZILLA」でゴジラが暴れまわったので世界には巨大生物(タイタン)がいることを知った人類。タイタンですよ、タイタン。もう神様じゃないですか。世界各地に眠る巨大生物は確認されているものの(ちなみに富士山にも一匹いたりする)、その存在は隠ぺいされ、ゴジラも行方不明。人々は一部の人を除いて、「あんなものがいるのはわかっているのに、どこにいるかもいつ現れるかもわからない」という不安感が包む世界になっています。

そんな中、サンフランシスコで息子を失ったエマ博士が「オルカ」という周波数を分析して怪獣の行動をある程度自由にコントロールできる装置を開発します。オルカ、これはシャチの学名として有名ですが、元の意味は冥界という意味です。シャチはイルカの仲間なので、鳴き声で意思疎通をはかるので、そこから命名したのでしょうが、彼女の執念が生み出した機械の神ともいえましょう。そんな彼女は怪獣に息子を殺され、その意味を考えた結果、「怪獣は地球環境のバランスを司る使いであり、目覚めさせることによって、早々に人類によって破滅を迎える地球を救う」でした。要するに彼女は息子は神への贄となった、その犠牲を無駄に自分はしてはいけないと信じ込むことで自分を救おうとしたのですね。彼女にとって怪獣は使徒だったのです。途中までは。

そんな彼女の元夫、マークが息子の失ったことから逃避を選び、自分が作ったオルカのプロトタイプも破壊、ゴジラへの憎悪を抱えながら独り身で過ごしていたことを考えると、対極的な道を選んでいるわけですね。

残された娘のマディソンはその間で葛藤し、翻弄されるのですが、怪獣のコントロールに失敗し、息子を失った意味の探求と破滅願望を混在させている母親を見て、オルカを母親以上に上手く利用し、人が作った機械神の主となるのです。豪雨の中でギドラとゴジラのマッチメイクをした時に見せた壮絶な笑みはまさにその証拠、子供であろうが「人類という獣(モンスター)」でありうるのです。そんな彼女もオルカが破壊され、その力の失った後は家族で住んでいた家へ戻り、そこを破壊の余波が襲うと子供らしく絶叫する・・・。

さて、この一家が今作の主人公ですが、もう一人、語らねばならない人物がいます。芹沢博士です。

初代ゴジラにてゴジラと運命を共にしたあまりにも有名な人物の名前を持つ彼には、今作にて最高の出番が用意されています。僕はその流れのシーンは涙が止まりませんでした。隣の外国人を驚かせてしまったようですが。

そのシーンとは、もうおわかりですね。そう、ゴジラとの心中です。ギドラとゴジラを一網打尽にするために海上で戦い2匹に「オキシジェン・デストロイヤー」という米軍の新兵器が投入されます。同じ名前の強い爆弾、とかではなくマジで酸素破壊装置です。酸素に呼吸を依存する生物なら例外なく死にます。が、ゴジラを活動停止に追い込むも、ギドラには通用せず。逆にゴジラが活動停止したことにより「王」がギドラとなり、世界各地で怪獣が暴れだす事態に。活動停止により死んだと思われていたゴジラを発見した芹沢博士たちでしたが、パワー注入するための核兵器が作動せず誰かがゴジラをところまで行って手動で作動させることに。そこで芹沢博士が潜水艇に乗り込み、X星人の服にも見えるような、あの潜水服にも見えるような、絶妙なデザインの恰好をしてゴジラの元へ。というか、潜水艇というか完全に人間魚雷「桜花」でしたね。

ゴジラが眠る場所への階段を上る芹沢博士。放射線数値はとうに限界を超え、目はかすみ身体の動きは鈍る。まるでそれはゴルゴダの丘へ至る救世主のような、痛々しくも荘厳な画でした。「オキシジェン・デストロイヤー」によって発生した事態が芹沢博士をゴジラの元へ導き、神の受難を挟み、そして彼は”日本語”で”あのセリフ”を語り掛け、ゴジラに初めて触れながら光の中へ消えていくのです。「神よ、なぜ見捨てたもうたのですが」なんて言いません。ゴジラも骨にはなりません。人と神だった関係が、その瞬間だけ対等な、そう、「友」となったのです。このシーン考えた人、天才でしょ?

キリスト教世界観との素晴らしい融合。このシーンだけで、この映画はゴジラシリーズの中でもぶっちぎりで名を刻む名作であると、僕は言いたい。

そんな気合注入でゴリマッチョになったゴジラはギドラとの最終決戦へ。初戦と違い、優勢に戦いを進めていきます。ギドラといえば、「オキシジェン・デストロイヤー」が通用しない、つまりそれは酸素に依存しない生物・・・地球外生命体ということになるというのは、上手いと思いました。X星人要素ですね。

ゴジラが活動停止している間に、ギドラが拠点としていたワシントンDCでの人類の総力戦、それだけで映画作れそうなレベルでしたが、描写は少なかったですね。まあ、怪獣映画だから仕方ない。しかし、ホワイトハウス以上に連邦議事堂ってランドマークとして優秀な建物ですよね。首都にあるといい、東京タワーのアメリカ版というべきか。

さて、最終決戦なのでギドラも都市の電力を吸い上げて放出する最強技を放ち、ゴジラを追い詰めます。そこで予告編にも登場したバーニングゴジラがついに登場。芹沢博士の気合注入が凄すぎて暴走気味でメルトダウンしそうだったのが、少し前にエネルギーを吸われてていい感じになったようです。ついにバーニング熱線が!?と思ってたら、エネルギー放射の方でした。そっち!?いや、VSシリーズでよく使ったから嬉しいけど!

と、その圧倒的な力でギドラを倒したと思ったら世界各地の怪獣がゴジラを取り囲む。おっ、怪獣総進撃か?と思ったら、怪獣たちはゴジラにかしずく。

そう、「王の帰還」である。キングオブモンスターは、そこにいるのだ。

 

・・・とまあ、こんな感じです。シン・ゴジラ現代日本が生みだした「リアルなゴジラ」なら、この作品のゴジラゴジラが好きな人間がすべてのゴジラ作品にリスペクトしつつアメリカ人的な価値観を元に再構成・・・好き放題やった「ファンタジーゴジラ」といえましょう。

シン・ゴジラが怪獣映画としてどうかはともかく、作品としては東日本大震災を経た、リアルな災害を見てしまった日本に、必要な作品だったと思います。庵野監督のメンタル的にも。

アメリカはキリスト教価値観の国であり、同時に世界最高峰のエンターテイメントの国です。その宗教的な構図、面白いものを全力で作るマネーとパワーがある国。そんな場所でゴジラが大好きな人間たちが作った、超強烈なストレート全力パンチがこの作品です。

まあ、そういうことは抜きにして、怪獣映画で面白い作品に久々に出会えました。感謝を。

 

 

 

あるプロデューサーの2018年

今年もあと数時間で終わろうとしている。2018年は、色々と嫌な年だった。良いことが少なかった年だった。原因が色々とあるが、ここではアイドルマスターシンデレラガールズのことについて語りたい。

 

春先から既に兆候は出ていたように思う。その時期にあった総選挙の活動もポスター一枚を作ったぐらいで、特別なことは何もしていなかった。もちろん、獲得できる票は獲得して全部担当に入れた。しかしそれだけであり、総選挙の「熱量」から逃げていた。自分にはない、尊いものを見るのが嫌だった。さらに正直なことを言えば、勝ち筋のない担当の現状の絶望感から逃れられなくなっていた。わかっている。これは所詮遊びだ。ごっこ遊びだ。だから勝ち筋に関係なく、自分の好きなアイドルを宣伝して、好きなアイドルに投票すればいい。それが嫌なら他の遊びでも見つければいい。しかし、私はそれもせずに、このコンテンツにしがみついて、不平や不満だけは言う、情けない存在でもあった。

GWに担当のカードがモバの方で来たのは本当に嬉しかった。この娘は可愛い、応援したい、好きなキャラクターなんだと、本当に思ったのだ。不安材料だったデレステの新機能のデレぽでも、彼女の発言は少なかったが、私は彼女らしいと思う、納得できる発言ばかりなので嬉しかった。

ボイスなしのアイドルのSSRデレステで続く中、いつか彼女のSSRも来るだろうと、更新の度にソワソワしていた。デレステで新曲が出れば彼女のスクショを取り、考えついたことがあればTwitterで発言し、モバのユニットで登場すれば反応する。貴重なグッズが出れば買いに行く。そんな毎日だった。梅雨の時期にはデレステで、彼女の全ポテンシャルを解放した。彼女のSSRが実装され、最強の彼女を見ることが楽しみだった。

7月。ミリシタの一周年イベントを機に、その頃は仮の担当だった島原エレナのSSRを取ったまま放置していたアカウントで復帰した。その後、エレナの限定ガチャも来て、この頃から明らかに重心がミリシタの方に移動しつつあった。それから8月にかけて、ミリシタの勢いはどんどん増し、自分が離れていた間にミリシタに実装されていた楽曲のクオリティの高さ、コミュの丁寧さに驚いた。特に虹色lettersには深く感銘を受け、それを島原エレナが歌っていることに運命的なものを感じ、島原エレナが担当という軸に明確に昇華し、ミリで生きていく一歩を踏み出した。それと同時に、2018年のデレの楽曲やコミュなどが全く記憶に残ってないことを自覚していた。ボイスがない担当が参加する可能性がゼロでも、デレの楽曲やコミュとの距離が遠くになりつつあることを感じていた。

それでも8月の終わりまでは「決定的」ではなかったし、「明確」でもなかった。もちろん不満や愚痴がなかったわけではない。私はTwitterでも特に憚らずに言っていた。でも、担当から離れるつもりはなかった。最後の最後まで見てやりたいと思っていた。ただ先に感じ始めていたデレというコンテンツへの不安感から、来たるアニバーサリーには期待はしないでいた。

そして8月31日。終わりは来た。新しい共通衣装、そして「ガールズ・イン・ザ・フロンティア」実装。アニバーサリー曲というのは、他のイベント楽曲とは違う。それからのコンテンツの向かう先と、彼女を取り巻く世界をどう示していくか、運営からのメッセージソングなのだ。そして今年のアニバーサリー曲はこれまでのそれとは全く違うものだった。新機軸を出すのはいい。「変わらなければやがて朽ちてく」と言ったのは、他でもない運営なのだ。

しかし、それは到底容認できる新機軸ではなかった。いや、新機軸でもなかった。今まで散々訴えてきたことを全て崩して、新しいものを提示するそれは、もはや暴力革命のようなものだった。

「自分の足で歩けシンデレラ」。嫌いだ。本当に嫌いなフレーズだ。

自分が何処か信じていたものが崩れ始めた。そのせいか、それからのデレステの楽曲は聞くに堪えない粗末な楽曲ばかりだった。クレイジークレイジーは何とか思い出せるが、ミステリアイズという「強い」2人を出してあんなメンヘラこじらせた曲しか出せないのかと思い、ハイファイデイズで元気よく未来への希望を歌ったメンバーに幼児退行を起こしたような曲を歌わせるのかと思い、アンデッド・ダンスロックは個性を調整に失敗したとっ散らかった楽曲だと思い・・・そして、一大イベントであるドームライブ「しか」意識していないStarry Go Roundは前奏の時点でふざけるのも大概にしろと思った。

チケットが当たったので現地に行ったSS3Aも正直面白くはなかった。ライブに行った回数はそう多くはないのだが、あんなに虚無感を感じたライブは初めてだった。

そして、私はデレの楽曲を切ることにした。携帯に入っていたデレ関係の曲を削除した。お願いシンデレラだけは最後まで迷ったが、やはり削除した。

そこからの崩壊は加速度的だったように思う。白菊ほたるのキャラクター性にだけは感心したが、残念ながら私は彼女の担当にはなれそうになかったし、サプボで新たなステージに羽ばたいていく彼女についていく気はなかった。彼女も迷惑だろう。

そうしてデレステにログインしなくなり、アプリを削除した。ただバンダイナムコIDとの連携は残してあったので、復帰しようと思えば復帰できる状態ではあった。

11月半ば。モバの方で、彼女の出番が来た。可愛かった。真っ直ぐで強い少女だった。頑張り屋さんの、おませな女の子だった。イベントのシステム上、たくさんセリフがあったので、とても嬉しかった。嬉しかったのだ。ただ、心の芯は冷えたままだった。自分でも信じられなかった。ただ、以前ならセリフ一つ一つを一か月ぐらい延々と語っていただろうに、一週間も経たぬうちに、彼女から何も感じ取れなくなった。

逆にミリシタの方への言及は増えていた。島原エレナ以外にも好きなキャラクターが増えていき、世界が拡大していくのを感じた。それはもう、デレでは感じられない熱量だった。

「ガルフロ」の実装からデレの粗ばかり目に入り、最初はそれに憤っていたのだが、この頃にはもうその気力さえなく、界隈が荒れるのを横目に見ながら、暗澹たる気持ちになる日々が続いた。

12月。ドームライブ。地元の名古屋で行われたので、会場を見に行ったものの、辛くなってすぐに帰った。その夜、新キャラクターの発表があった。

頭おかしいんじゃないかと軽蔑することはあっても、もう憤る気力もなかった。ただ、そういうことをする、これからもそうゆうことをするのなら、もう清算しようと思った。こんなコンテンツに金を落とす要因なんて消してしまおうと思った。

まず、モバゲーを退会した。入った理由もモバマスなら、辞めた理由もモバマスだった。そして1200枚ほどあった彼女に関する画像、スクショ、思い出。全部消した。USB何かに残そうかと思ったが、未練だし情けないのでやめた。1時間ぐらいかけて、泣きそうになりながら消した。

年内最後のパッションの更新を期限と決め、デレステの連携も解除しようと思った。大方の予想通り、イヴだった。そのことに不満はない。それまでのふざけたガチャ更新からすれば、まともな方の更新だった。ついぞ2018年に彼女のSSRは来ず、界隈を見てれば来年はさらに絶望的なのは嫌でもわかった。そしてデレステの連携を解除し、消した。

これでデレにおける私というプロデューサーは事実上消滅し、見捨てた彼女はまだあのコンテンツで生かさず殺さずで生きていくことになった。

これがあるプロデューサーの一年の顛末である。卑しいだろう、醜いだろう、情けないだろう、未練がましいだろう?

現在はデレに言及する時は、あざ笑う時だけである。全て自分可愛さの、尊厳も誇りもない、なれの果ての搾りかすの鳥が囀るのだ。

主軸をミリシタに移動させたが、こんな悪辣な人物なので、迷惑をかけないようにしている。今年の総括をブログにしたのも、Twitterよりは閲覧の敷居が高いためだ。

まあ、ミリの方は話はこのぐらいでいいだろう。

最後に。私の担当の名前を、もう名前を呼ぶことさえ辞めようとしている、担当の名前を記す。

彼女の名前は、メアリー・コクラン。

私が支えたかった、でも逃げ出した、キャラクターの名前だ。

 

 

 

 

 

映画「来る」という小説「ぼぎわんが、来る」の””アナザー””

超久々のブログ更新となります。そのお題は先日公開されたホラー映画、「来る」。原作は第22回日本ホラー小説大賞で大賞を受賞した「ぼぎわんが、来る」。私は映画を見ると決めてから原作を読みましたが、大変面白い作品でした。そして気になったのが、私が原作に抱いたイメージと、トレーラーの映像の雰囲気の違い。ホラー映画の準主役ともいえるお化けの名前を敢えて外した映画版、これは成分は同じでも、全く違う毛色の作品になりそうだ・・・と覚悟して見に行きましたが、それはどうやら功を奏したようです。なので、個人的には映画を見る前に原作は読んだ方がいいです。

さて、各登場人物別に原作との違いを踏まえつつ感想を書いていきます。なので、原作と映画のネタバレを含みます。なのでそれが嫌な人はここまでで。

 

 

 

 

〇田原秀樹

原作では第1章の語り手。自己中心的なイクメンで、そこから生まれる家庭内の歪みが「ぼぎわん」を呼び寄せる。

映画では自己中心的で、周りの目線ばかり気にする、イクメンなのに妻と子供を顧みない傲岸不遜ぶりを、それを妻夫木聡さんが好演してくれています。

原作では秀樹の地元の化け物「ぼぎわん」と、彼の実家の因縁が恐怖の始まりだったのですが・・・そこはバッサリとカット。まず原作では重要な祖父の家での留守番の場面がだいぶカットされて、ただ「ぼぎわん」らしきものが襲ってくる、に留めてあります。その代わりに、行方不明となる少女との会話。「呼ばれてしもたら、逃げられへん絶対。だってアンタ・・・」とトレーラーでは伏せた場所には「嘘つきだから」が入ります。

そう、映画の彼は徹底的に嘘つきなのです。原作では真摯なところもあった(もしくは第1章が彼視点なので、そういう印象を植え付けられた)秀樹ですが、周りに対しても、妻に対しても嘘ばかりついてるクズのような男になっています。

おかげで彼が「ぼぎわん」との対決を決意するシーンが割合空虚なものになり、その後「ぼぎわん」の罠に引っかかって命を落とすシーンも哀れな被害者にしか見えません。

と、散々な彼ですが、後半の原作にはない、自分が死んだことにも気づかずに自宅のマンションに漂う彼の霊魂を除霊するシーンで、彼は死んだ自分に気付いて号泣しながら叫ぶのです。「知紗に、知紗にもう一度会いたい」と。彼は死んでから、やっと本当の自分を出せた・・・しかしもう遅過ぎた。彼はそのまま消滅します。

しかし、彼が最期に叫んだ知紗ですが、あんな存在では・・・。

〇田原香奈

原作では第2章の語り手。化け物に襲われるパニックホラー的な恐怖の前章から一転、彼女は人間的な怖さの担当となります。「ぼきわん」とは関係なく、母親という存在が陥る歪み故に。

そう、母親です。映画の彼女は母親という存在に徹底的に狂わされていくのです。原作でも彼女の家庭環境、ひいては母親が碌な存在ではないことは示されていますが、原作での言及は少ないです。しかし映画はそこをフィーチャーしています。

明らかに水商売ぽい、ド派手なメイクと服に身を包んだ香奈の母親ですが、いつまでも若い自分のつもりで、しかし加齢とともに現実と乖離し始めると、それを香奈の出産のせいだとなじる、ダメな母親になっています。ちなみに父親の存在は全く出てこないので、香奈が誰の子かもわからない、そんな男女関係だったのでしょう。香奈はそんな母親になるまい、と秀樹との結婚、そして出産、子育てに臨むのですが・・・彼女の想いもむなしく、彼女は自分の母親と同質の存在へとなっていきます。

まず、秀樹を見限るのは原作と同様なのですが、彼女は母親より女としての自分を優先させることがハッキリと描写されます。つまり、不倫です。まあ、原作でも映画でもハッキリと不倫してる秀樹という存在がいるので、それはいい(?)のですが、彼女は娘を顧みなくなります。そして彼女は娘を比嘉真琴に世話をさせ、かつての母親と同様に、ド派手なメイクと服をまとって、間男との情事にふけります。

原作では貞淑な妻ゆえに、”我慢したこと”が元凶となりますが、映画は反対に”我慢しないこと”が元凶となり、事態を悪化させます。

そして「ぼぎわん」の襲撃。原作どおり真琴が盾になっている間に、娘と逃走します。「どこでもいいから遠くへ」。そう言われるのも同じです。しかし、新幹線に乗った原作の彼女と違い、映画の彼女は最寄りの駅でどうすればいいかわからずに、なんと駅のレストランで娘に食事をさせます。要するに現実逃避です。

そんな現実逃避でも、食事をする娘を見て、彼女も娘を守るために覚悟を決めるのですが、そのタイムロスは決定的でした。知紗がトイレをせがんだので、駅のトイレへ。そこで二人で入った個室で、彼女は「ぼぎわん」に襲われ、死亡します。原作では生存した彼女が、あっけなく命を落としたのです。

彼女を襲った「ぼぎわん」が取った姿は、彼女の母親。

血だまりのトイレの床に倒れ、覆らなかった運命から解き放たれたことを喜んでるような、同時に覆らなかった運命に泣いてるような・・・そんな表情をした彼女は、原作の彼女の最期を知っていると、やるせない気持ちになります。

〇田原知紗

元凶。

原作では秀樹の実家が呼び起こした「ぼぎわん」を彼女が呼び寄せたことになってますが、映画では自分を顧みない両親の代わりに、遊び相手として「ぼぎわん」を呼び寄せたことになってます。つまり、知紗の単独犯になってます。

そして遊び相手を影響か、性格がかなり残酷なものになっています。いえ、子供特有の残酷さが「ぼぎわん」によって増幅されている、と言うべきか。

原作、映画共に「子供という存在」が重要なテーマの本作ですが、映画は子供の悪性を重点にしています。彼女は、その代表者の位置を与えられたのです。

〇野崎崑

原作と設定がかなり違っている人物。まず、彼の重要なファクターである無精子症の設定がなくなっています。妻との間に子供を作るものの、生みたいという妻に中絶を強要した過去がある、というのが彼の歪みになっています。

原作では生を作れない欠陥でしたが、映画は生を喜べない欠陥を抱えていて、より事態は深刻なことになっています。

子供への情はあるが、子供という存在に対する恐怖が強く存在する。そんな中途半端な彼がとった、中途半端な行動が、この映画のオチを呼び寄せるのです。

〇比嘉真琴

田原一家よりは原作との設定の相違はない人物です。子供が生めない身体なのも同じ。

原作ではそれ故に、人一倍他人の子供を愛し、守るために奮闘するのですが・・・。

映画では、田原香奈が放った「欲しいなら、あげるよ。知紗。」の一言が、彼女の中の黒い感情を励起させます。

終盤の除霊シーン。「ぼぎわん」に取り込まれた彼女が再び野崎の前に現れ、田原夫婦をどうしようもない奴等だと思っていたこと、そんな家に子供がいること、その幸せを忘れて赤の他人の自分のあげるなどと言い放ったことへの憤怒を表に出します。

そして「ぼぎわん」が生み出した、膨らんだ自分のお腹を野崎の子だと言い、それを野崎が否定すると、彼女は割れたガラスで腹を突き刺すのです。

生めない女と、生ませなかった男。二人にとっての悪夢が、再度繰り返されたのでした。

〇比嘉琴子

真琴の姉で、日本有数の霊媒師。原作では物語に幕を引くデウスエクスマキナ的な存在。映画でもその役割は健在。ですが、状況が全く違う映画では、幕の引き方は全く違います。

知紗が原作以上に「ぼぎわん」に近いため、「ぼぎわん」を除霊するために、知紗もあちらの世界へ返す判断をします。そのために、原作以上にドライな印象を受けます。

・・・ですが、彼女が原作では知紗を救う判断をしたのは状況判断の結果であり、状況が違えば、知紗もろとも「ぼぎわん」を除霊する判断をする・・・というのは、考えられない話ではないと思いました。つまり、彼女は他の登場人物とは違い、ブレが生じてないとも言えます。彼女のデウスエクスマキナ的な役割がそうさせたのだろうと、そう思います。

〇津田大吾

秀樹の親友の民俗学者。原作の唐草大悟に相当する人物。そして香奈の不倫相手です。

名前も違うし、民俗学者ぐらいしか共通点がない。

原作では香奈にモーションをかけるも、相手にされない冴えない男の印象でしたが・・・チャラ男です。大学教授かお前?てぐらいチャラいです。

秀樹の家庭を呪うのは同じなのですが、理由は原作では家庭を持つことを当たり前だと思う奴等、世間が許せないという、まあ感情は理解できるよ・・・というものから、秀樹なんてただのオモチャで、アイツが得たものを奪っていくのが楽しみだったというドクズな理由になっています。野崎との共通点も、家庭を持つことを当たり前とする存在に対する憎しみから、そのような生をあざ笑う存在としての共通点に変更になっています。

そんな彼は原作の唐草と違い、「ぼぎわん」によって殺されます。

〇逢坂セツ子

霊能力者。原作では琴子の紹介で秀樹と野崎と会うも、「ぼぎわん」の襲撃を受けて落命、それこそが「ぼぎわん」の罠の始まりだった・・・という、「ぼぎわん」の恐ろしさを際立たせる存在。

が、映画では最終的に「ぼぎわん」に敗北するも、琴子以上に終盤の重要な役割の担います。

原作同様に片手を失うものの、「ぼぎわん」との決戦前に再び参戦。さ迷ってた秀樹の魂を鎮め、野崎に””異形との戦いでは生死のはざまでさえ曖昧になる。そこで確かなものは「痛み」だけ””という言葉を残す。この言葉が、野崎の後の行動を決定づける。

 

さて、映画は原作より人の悪性、悪意を焦点に当てていることは、もうおわかりだと思います。特に子供の悪性・・・笑いながら虫を殺す子供のような、純粋ゆえの悪性。「年齢的に」子供である知紗が、「精神的に」子供である大人を破滅させていく物語。救いがなさすぎますが、そうとも取れるお話なのです。

大人のような・・・合理的な判断が取れる故に、知紗を犠牲にしようとした琴子に対して、野崎は「遊び相手が欲しかっただけだ、両親が振り向いてくれないから化け物とだって遊んでしまうんだ!」と泣き叫びながら、知紗を救おうとします。子供を犠牲にすることが正しいとは思えませんし、野崎が一回犯した過ちを考えれば、そういう「癇癪」を起こしても仕方がありません。それに対して琴子は「ならば・・・ちゃんと抱き留めていなさい」と、つまり最後まで責任を持てよと言い、野崎を「ぼぎわん」から引き離します。

そこまで段取りを滅茶苦茶にされても「ぼぎわん」に勝利したらしい琴子のブレなさは置いといて。

ラストシーン。眠る知紗を抱いた真琴と、野崎がベンチに座りながら、これからどうすればいいのかわからないまま、知紗の見てる夢を気にします。真琴が能力で知紗の頭の中をのぞくと・・・

彼女が考えているのは、亡くなった両親でも、守ってくれた野崎や真琴でも、遊び相手だった「ぼぎわん」でもなく。好物のオムライスのことでした。そして流れるオムライスの歌。夢特有の狂気じみたオムライスの世界をバックに、知紗が歌う映像が入ります。それを真琴が野崎に伝えると、彼はシニカルに笑って、「なんじゃそりゃ」とうそぶくのでした。

これで終わりです。「は?」と思われる方もいるかもしれません。でも、原作を読んで、映画を見て、このラストは本当に怖かった。ゾッとしたんです。ナンセンスでもない、アイロニカルでもない。本当に子供が見てそうな、夢。この映画が訴えてきた、子供という存在の悪性、不気味さが結実したラストでした。子供は守るべき存在だということは守ってきた原作に対して、最後で渾身のストレートをブチかます、そんな感じです。

これは原作無視の映画ではありません。監督は原作を読みこんだ上で、映像化にあたってこう「ぼぎわんが、来る」を表現するのだと、叩きつけた作品です。

「ぼぎわんが、」を取ったのも意味があるのです。この作品に出てくるのは「ぼぎわん」らしき”何か”です。この記事では便宜的に「ぼぎわん」で呼んでいますが、原作のように姿は明確に出てこないし、原作より容赦なく殺害を繰り返します。呼ばなければ、来ない。のではなく、「来る」んです。奴は、もう。

 

さて、長々と語ってしまいましたが、ここで筆を置くことにします。あ、最後に。

岡田准一さん、本当に良い演技しますね。

シンデレラ☆ステージ6STEP総括という名の自壊しかかったPのお話

3月11日(日)に開催されたシンデレラ☆ステージ6STEPに参加させていただきました。

拙作を手に取っていただいた方々、持っていった自作フィギュアを褒めていただいた方々、本当にありがとうございました。

さて、今回で同人誌即売会に参加するのも3回目となりました。アイドルマスター シンデレラガールズに登場するメアリー・コクランというアイドルの本があまりにも少ない・・・というか、ほとんどなかったのにショックを受け、ならば自分で作ろうと思ってから、1年と少し。即売会に参加するにあたっては、常に不安で、常に作品の生みの苦しみに悶え・・・そして、自分の力のなさという、現実に落胆していました。それでも、メアリー・コクランというアイドルのために、そして拙作を手に取っていただける方々のために、作品を3作品、お送りしました。そのシリーズも今作で完結です。

 

さて。

 

過去の即売会の総括は、当日かその翌日には書いていました。しかし、今回は一週間も間を空けてしまいました。何故かというと、今回の即売会が終わった直後は、総括を書ける精神状態ではなかったからです。それぐらい、今回の即売会は辛かった。

 「前回までと同様に、今回も楽しかった」と書いてしまうのは、簡単です。しかし、真剣に臨んで、熱意を込めて作ったものを出した場での総括で、嘘はつきたくありません。

今回の即売会で、端的に言えば、僕は自壊しかかりました。自分がいかに甘かったのか、そして驕っていたかを思い知ったのです。

まず甘さ。僕は絵が描けないので、文章だけの、挿絵の一つもない本を出しました。しかし即売会を重ねていくうちに、絵の練習ぐらいはした方がいいのではないか?その方が、メアリーコクランというアイドルを表現して、知ってもらう上で良いのではないか?という思いがどんどん膨らんでいきました。それでも、僕は、文章という表現に甘えていたのでしょう、絵の練習はしませんでした。即売会への参加も3回目となり、周りを見渡す余裕ができ、そして色々なグッズを見ました。文章主体でも、表紙は絵になっているものもありました・・・いえ、それが「普通」なんでしょう。夏コミにも、歌姫庭園にもあったはずの、それらが見えていなかった自分に失望し、そして3回目にしてまで何も工夫らしい工夫をしていない自分に絶望しました。

そして、驕り。「メアリーコクランというアイドルの本がないなら、自分が書いてやる」。そう思った、いつかの冬コミの想いは、本物だったのでしょう。ただ3回目の今回は、ただ「メアリーコクランというアイドルの本を出すこと」だけが、目的と化していたように感じます。彼女のために燃えていた炉の余熱で動いていた。端的に言えば、漫然となっていた。もちろん、シリーズ完結編ということで、頑張って作品を書きました。拙作を手に取っていただいた人に失礼のないように、そして僕が考える彼女の魅力が伝わるように。・・・それでも、「彼女の本を出す自分」にプライドみたいなものを持ってしまっていることを自覚してしまった時点で、その傲慢さに気付いてしまった時点で、とても、同人誌即売会にいる自分が恥ずかしくなったのです。

 

そんな甘さを驕りを痛感した自分が惨めで、情けなくて、卑しくて。メアリーコクランというキャラクターにも顔向けできなくて、一時は彼女から離れた方がいいのかな、と思いました。

そして1週間ぐらい考えてみて。それでも、彼女の隣に立っていたい自分が残っていました。それは燃えカスでも、灰でも、確かにそこに残っていたのです。

僕は恥ずかしながら、プロデューサーを続けることにしました。

 

・・・今回の記事は、僕の考え過ぎかもしれませんし、根っからのネガティブさが暴走した結果かもしれません。なので、何言ってるのかよくわからない文章かもしれません。それでも、こう思った自分がいたのだと。書き留めておくために、今回の記事を書きました。 

 

 

シンステの本の序盤公開

来たる3月11日(日)に行われるシンデレラ☆ステージ6STEPSに参加させていただきます。サークル配置はく-35となります。頒布価格は100円です。

またメアリーコクランの小説を書かせていただきました。「Next to her」と銘打って、駄文乱文を勢いのまま出してきましたが、今回がそのシリーズ完結編となります。といっても、前作を読まなくてはわからないような箇所はほとんどありませんが。

これまで作品を作るにあたって、一編を除いて全ての話をプロデューサー視点で固定してきましたが、今回は2つ、メアリーコクラン視点の話を入れました。

今回公開する序章は、そのメアリーコクラン視点のお話の一つです。

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いかがでしたでしょうか。僕のメアリーコクラン像と投射したものなので、皆様のメアリーコクラン像とはまた違ったものかもしれませんが、そこを含めて楽しんでいただければ幸いです。

では、会場でお会いできれば。

 

欠けていたものが埋まる大切さ

2月7日はアイマス界隈に2つの大きな動きがあった日であった(正確には、1つの方は8日0時00分であるが)。

 

一つ、スマートフォン向けブラウザゲームアイドルマスター シャイニーカラーズ」の発表。

 

一つ、「アイドルマスター ミリオンライブ(ミリシタ)」への田中琴葉の復帰である。

 

この大きなニュースに自分のツイッターのTLも大きく賑わっていた。自分も何かツイートしようと思ったが、この動きに複雑な感情を抱いてしまったため、140字のツイッターではなく、こうしてブログの記事を書くことにした。

 

まずは、田中琴葉復帰おめでとう。ミリシタがスタートしてから半年ほど。担当Pでも、そうでなくとも、この全員が揃う日を一日千秋の思いで待っていたのは想像に難くない。ミリシタから撤退してしまった自分でも、彼女がBrand New Theaterを歌う姿は、グッとくるものがあった。

 

さて、アイドルマスター シャイニーカラーズ(シャニマス)である。わかってはいたが、やはり登場アイドルにCVはつくことになった。

まあこのご時世、新規リリースのこういうゲームにCVがつかないなんてのはあり得ない。わかってはいた。わかってはいるのだ。それでも、どうして割り切れない感情があった。

何故、そのCVをアイドルマスター シンデレラガールズ(デレマス)のCVなしのアイドルに回してくれなかったのか?そちらからつけていくのが先ではないか?という思いである。

これがお門違いの考えなんてことはわかっている。それはデレマスの、特にCVなしのアイドル本位の考え方であるということを。新規シリーズがCVなしのアイドルがいる状態で発表してまで、デレマスの方に声を回せ、いやそもそも新規シリーズ発表前にデレマスのCVなしのアイドル全員に声をつけろ。そんなことを言っても仕方がない。現実的にそれらは無理なのだ。

だからといって、自分のアイドルが歌も歌えない中、後輩タイトルのアイドル達が普通にCVを貰っているのをみると、そういう感情が沸いてしまうことまでは否定はしたくない。人間、それが言っても仕方なくても、現実的には何の意味もない叫びでも、叫ぶこと、思うこと自体が自然な、当たり前な感情や思いがあると思うのだ。

CVがなくても、プロデュースはできる。私だって好きになったのは、担当になろうと決めたアイドルは、CVがなくとも、それでも魅力的なアイドルだからだ。彼女のキャラクターに惚れ、そして隣に立って応援したいと思ったアイドルだからだ。

それでも、彼女の歌が、聴きたい。

そう思ってしまう。

もう散々語られていることだが、現在のデレマスの中心コンテンツである「スターライトステージ(デレステ)」は音ゲーであるため、CVのあるなしで活躍に大きな差がつけられている。それは露出度の差であり、既に知られているアイドルはさらに知られ、知られていないアイドルは「誰?」扱いされ、挙句の果てにはモブ扱いまで受ける。デレステ運営の方も、全員のSRまでの実装や、今年になって始まった新イベントで、CVなしの方にも力を入れているが、それでも開いてしまった差は大きい。その反面、シャニマスは全員がCVつきで同じスタートラインで出発する「安心感」がある(デレマスも最初は全員CVなし、同じスタートラインではあったが、その期間は歴史の中で極初期である)。

そしてこれはデレマスのいうコンテンツの欠点、欠けている部分である。この欠けた部分が埋まることをおそらくないだろうし、この欠けた部分を妥協しながら、最悪切り捨てながら、このコンテンツは続くことになる。満月になることはなく、欠けた月の上で生きるコンテンツ、それが僕が思うアイドルマスター シンデレラガールズである。

逆に、ミリシタは欠けていたものを埋める、満ちていく過程であった。お世辞にもうまいとはいえない初期の運営方法やイベント、そしてやむを得ぬ事情とはいえ、一人の欠員。しかし去年の冬あたりから、効果的なアプデを重ね、ユーザーへの還元をし、そしてついに、2月8日に彼女が戻ってきたのだ。それはまるで、新月が満月になるように。欠けていたものが現れ、満ちていく喜びを与えるように。それが、僕が思うアイドルマスターミリオンライブである。

欠けている、ということはよいことではない。しかし世の中に完璧なものはなく、何かしら欠けているものだ。それでも、欠けたものを埋めることはできる。

その時、欠けていたものが埋まる大切さに気付くのだ。

そう、思った、2月の初旬のお話。

 

<ここから被害妄想>

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さて、シャニマスの情報を見た時に、地味にショックを受けたのはこの子の情報を見た時である。

出身地、アメリカ。金髪ツインテ。ハーフかそうでないか、年齢の違いはあるが、私の担当に似通ったのが、いわゆる”信号機トリオ”という主役級で、もちろんCVつきで出てきたのである。

まあ、どちらかというと、彼女よりは彼女が姉に似ていると慕っている子に似てる気がするが、それはともかく純粋な外国人へのサプボはやはり難しいんだな・・・と思ってしまった。

これから「アメリカ出身のアイドル!」というと、私の担当ではなく、この子になっていくのかな・・・嫌だなぁ・・・。

おませなリトルガール:メアリー・コクランについて

2017年11月22日。この日のデレステのガチャ更新により、ついにメアリー・コクランに新カードが追加された。

 

約670日。それが待った期間である。

 

長かった。本当に、長かった。

さて、追加されたSRは[おませなリトルガール]。モバマスにおいての、メアリーの初めてのSRであり、彼女がどういうアイドルかよく表している良いカードである。このカードを採用した運営さんには感謝の念を禁じ得ない。

そして、同時にメモリアル4も追加された。ついに、デレステで彼女の初仕事が描かれたのである。それも素晴らしいものであった。詳しくは後述する。

まずは、[おませなリトルガール]について語らせてほしい。

①[おませなリトルガール]のいうタイトル

自分はこのタイトルがとても気に入っている。彼女の紹介する文章を考える時は、まずこのワードを念頭に置いているし、文中にも表現を変えて多用している。それぐらいに端的に彼女という人物を表す言葉なのだ。ここで注目して欲しいのは”リトル”という単語。メアリーぐらいの年齢の女性なら、ガールだけでもよいのに、リトルをつけている。

英単語littleには「小さい」そして「かわいらしい」という意味がある。我々プロデューサーから見れば背伸びして自分を大きく見せたい彼女も、おませで、小さい。しかし同時にとても可愛らしいのだ。”リトルガール”にはそういう想いが込められていると、自分は思っている。

②特訓前

 

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このイラストから注目して欲しいのは、ぬいぐるみのような”年齢相応の”買い物は後ろに、そして我々に見せているのは、”オトナっぽい”衣装だということ。

そしてそれは、我々、「ダーリン」のために買ったものである。

ヒールはサイズが大き過ぎたのかオトナになってから履くというセリフがモバマスの方で見受けられる。彼女は、せっかく来たイギリスの地で、ダーリンと買い物することを選び、そして自分のためではなく、ダーリンのための買い物をしたのだ。

しかし、似合ってる?とかオトナのレディだったら嬉しい?というセリフもあるところを見ると、自信満々にプロデューサーにアタックする彼女も、一抹の不安はあるようだ。そんなところも愛おしい。

”キュートなのもステキだし、セクシーなのも捨てがたいわネ

デレステで追加されたセリフである。まさに彼女の気持ち・・・

キュートな自分が魅力的なのを自覚しながら、それでも自分が目指したいセクシーさの間で揺れ動く。

を、表現しているといえる。

③特訓後

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 特訓後、イギリス国旗を振っている彼女であるが、デレステで「腕が痺れて、もう上がらなくらい」必死に頑張って振っていることが判明した。しかし、彼女はそれを顔には出さない。

彼女は、ダーリンからもらった”ハッピー”をファンに届けたい、その一心で旗を振る。そんな自分がつらさを出してはいけない。自分がしてもらって嬉しかったこと、その気持ちをファンにも共有して欲しい、伝えたい。そのために頑張れる彼女は、まさに”アイドル”なのだ。

モバマスの親愛度MAXのセリフで彼女はトップアイドルをプロデューサーと目指すことを改めて決意する。

そして、デレステの親愛度MAXのセリフでは、自分がスゴいスターになることを”誓う”、そして”信じて見てて”と言う。

目指すのではなく、誓う。彼女はより、こちらを見つめながら決意するのだ、トップアイドルになることを。腕が痺れるまで旗を振り、息を切らしている彼女にこう言われたら、こちらも腹をくくるしかあるまい。そうでなければ、我々は何のための存在か。

そう、旗を振るのだ。彼女は、ファンに対してだけではなく、我々プロデューサーにも、旗を振ったのだ。

降参の旗を振るのではない。奮起の旗だ。我々を導く旗だ。続け、進め、追いつけ。彼女の、担当であるならば。

④メモリアル4について

デレステの初仕事は食レポだった。メアリーはそのおませぶりが注目されやすいが、趣味の欄にはグルメツアーをはっきり書いてある。それを拾った素晴らしい設定だ。

メアリーは日本語を間違えながらも、そしてそれを笑われながらも真剣にこなす。期待されているのは、そういう”可愛い”ところだとはいえ、それは見ていて心苦しい光景。メアリーは休憩中に不満を漏らす。そんな彼女に言ったのは、

いつものメアリーらしく

だった。スターらしく振舞わなくてよいことに疑問を覚えるが、休憩後、メアリーは自然体でお汁粉の食レポをこなす。見たことない黒い液体。しかし、メアリーは

スターになるために、どんなことでもチャレンジすると果敢に食レポに挑む。

そんな少女の勇気と共に、流れる「お願いシンデレラ」のイントロ。

泣いた。冗談抜きで、泣いた。

ちなみにお汁粉なのは、ぷちデレラで小豆が好きだと言っていったので、その回収である。

そう、彼女がスターらしく振舞うことでスターになるのではなく、彼女が彼女であるだけで、既にスターなのだ。彼女は既にシンデレラで、プロデューサーは舞踏会の会場に連れてきただけ。あとは彼女が彼女らしく踊ってくれれば、それで問題はないのだ・・・

メアリーはいつもの自分らしくを、「今のアタシでもソー・セクシーってことネ!」と解釈したようだ。まあ、半分正解といえば正解なんだが・・・もう半分を指摘するのは野暮だし、彼女はそのうち気付くことができるだろう、と自分は信じている。

 

とまあ。メモリアル4、最高でした。是非皆にも読んでもらいたいメモリアルです。自自信をもってオススメできます。

⑤最後に

そんなメアリー・コクランのSRがピックアップしてるので、是非引いていただいて、彼女の可愛さ、デレステのモデルのすばらしさに気付いていただきたい。

この記事が、そのきっかけとなれば、それに勝る幸いはありません。