残された手札がジョーカーならば、ゲームは上がれない 〜映画「ジョーカー」感想〜

" 酒が人をアカンようにするのではなく、その人が元々アカン人だというのを酒が暴く"


いつか聞いた格言だ。切っ掛けそのものに善悪はなく、切っ掛けによって現れるものが悪性であるのだ。では、「元々」とは?誰しもが悪性を抱えている。悪性がない人間がいるとするならば、その存在そのものが悪性だ。切っ掛けはそこら中に転がっている。個人と社会、富む者と貧する者、才能がある者とない者、運が良い者もない者、出会いに恵まれていた者と恵まれなかった者。どの天秤が崩れても、どれもが欠けても、人は誰しも"彼"に陥る。鍛え上げた肉体もなく、目からビームも出ず、古代の英雄の血を引くものでもない。ただ我慢することをやめた、一人の男に。


映画「ジョーカー」を見た。公開前から色々と騒がれ、あのダークナイトに並ぶ傑物が出たと話題の映画を。言ってしまえば、一人の冴えない男が不運と生まれの不幸を知り、追い詰められ、誰からも助けてもらえず、我慢をやめた。それだけの映画だ。

ただ、"それだけ"なのが、我々は彼の着地点を知ってしまってるが故に、どうそこに行き着くかを期待してしまう。ピエロを見るかのように。そこを丹念に、アーサーの手札をどんどん奪っていく。仕事、母親、コメディアンへの憧れ。彼を繋ぎとめていた手札はどんどん捨て札となる。そして最後に残ったのがジョーカーのカード。切り札ではあるが、それが残ってしまうと、もう上がりはない。ただ、それが人生だ。スヌーピーも言っていただろう、"配られたカードで勝負するしかない"って。そのカードが捨て札とジョーカーしかなかった。"それだけ"だ。


さて、映画の話であるが、現代社会がどうとかは置いといて、一人のヴィランの誕生の物語として、これだけの映画を提供した、というのは確かにアメコミ映画史上に残ることである(ニワカの私が言うのはおこがましいかもしれないが)。逆に言えば、ジョーカーはやっとダークナイトから解放されて、"今後数年のジョーカー像と引き換えに"新たなジョーカーを打ち立てることに成功した。そういう話なので、バットマンの過去作を漁る必要はないが、ゴッサムシティやブルースという少年が気になったら近年のバットマン作品を見てみるのも良いかもしれない。


最初に悪性の話をしたが、感情移入をさせないためか、問題提起のためか、アーサー自体に問題があるようにしている。彼の手札からジョーカーが浮上したのは、偶々手に入れた拳銃の存在だが、それこそ最初の酒の格言に通じる。彼は善人ではない。我慢しているだけだ。その蓋を、拳銃という"力"がまずこじ開けた。それから拳銃に関わるミスで仕事を失い、拳銃で初めての殺人を犯す。アーサーの段階が進むたびに、たった一丁の拳銃がその存在を強く主張するのだ。……話はそれるが、天気の子の拳銃の使い方がド下手だったために、たった一丁の拳銃の重みを、治安最悪のゴッサムシティで、銃社会アメリカで表現できるのかと驚いたのだ。


劇中ではこれでもかというぐらい、"病的な"笑いが登場する。では、「彼」が、本当に笑った時はいつか?それは最後にあるコメディアンを撃ち殺した時だ。彼の人生に初めて愉快なオチがついた瞬間。それから彼は、本当の笑いが混ざるようになった。あの瞬間、アーサーとジョーカーの垣根は消え、二人は溶け合ったのだと思う。そして最後、パトカーの上で、熱狂した民衆に囲まれて、彼はアーサーではなく、完全にジョーカーとして目覚めたのだ。"この口の傷の話"が結実した、あの瞬間のための映画といっても過言ではない。


そしてラストシーンは本当に感心した。病棟で人殺しをしたジョーカーが職員に追いかけられるシーン。続く廊下の向こうのT字路が"まるでコマ割りのように"。愉快に職員とジョーカーが追いかけっこ。アメコミだ。これはアメコミなんだ。そう、我々をまるでアメコミの枠を超えた映画から、原点に回帰させたのだ。そして、The END。コメディはオチが大事だが、これ以上ないオチだったと思う。


いや、長くなった。コメディアンといえばウォッチメンあいつだよねとか書きたいが、まあいいだろう。別世界のジョーカーが戦ってるし。ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。ジョーカー、面白い映画とは言い難いですが、傑作ですよ。