あの時プレイした美少女ゲームはこんなに「綺麗」だったのか? ~「天気の子」感想~

新作『天気の子』は、天候の調和が狂っていく時代に、運命に翻弄される少年と少女が自らの生き方を「選択」するストーリー。 映画『天気の子』公式サイトより

 ゼロ年代美少女ゲームの残り香のようなストーリーだと聞いた。葉鍵やロミオなどの、美少女ゲーム全盛期にリアルタイムで触れた世代ならば、PS2ドリームキャストで発売された、コンシューマ美少女ゲームをやっていた世代ならば、胸を打つものがある内容だと聞いた。だから、見に行きました。「天気の子」。

 

確かに主人公の帆高と、ヒロインの陽菜の前には数々の「選択肢」が現れ、

バーサーカーイリヤに殺されるエンド並に多そうな「帆高実家帰還エンド」や

ONEの「右に行く」「左に行く」並にノーヒントな上に、どちらでもよさそうなクイックセーブ必須の「銃を撃つ」「銃を撃たない」という選択肢、

2周目でいきなり「夏美の就活を手伝う」とかの選択肢が現れ、未読スキップが止まってビックリしそうな夏美ルート、

FDでファンの声に応えて追加された上に一番万事解決してしまう凪ルート、

等々、事前情報もあって、色々と見えましたよ。確かに美少女ゲームチックといえば、まさにその通りでした。そしてこの記事を書くために公式サイトを覗いたら、それらの美少女ゲームメソッドがポピュラライズされた文言が出てきたわけです。で、思わず引用したわけです。

映像作品としては見事でした。さすがと言うべき美麗な東京の景観と雨の表現が、素敵なBGMを伴って110分流された。それが、「天気の子」です。

それは、楽しくて美しくはあったが綺麗ではない記憶が、さも綺麗な顔して再演される居心地の悪い、気味の悪い時間でした。

自分にとって美少女ゲームとは後ろめたい記憶でもありました。決して人に言うような趣味ではなかったし、親にも何回もそんなゲームやめろと言われました。それでもやってた。ゲームをポンポン買えない学生時代に、手あたり次第買ってやってた。

美少女ゲームは、そのほとんどが「学園モノ」、つまり青春モノです。作中の帆高のような、とにかく真っ直ぐで、キラキラしていて、甘酸っぱい恋。当人以外には、作中の刑事のように舌打ちの一つでもしたくなるような恋。

そう、当人以外では舌打ちしたくなるような恋故に、これは昔やった美少女ゲームだという話もわかるのです。でも、自分はもうそれは遺産のような記憶で、既に舌打ちしたくなる刑事側になっていた。須賀さんのような「元主人公」でもなく、外縁にいるキャラクターの方に心情が寄る歳なのです。

自分は、美少女ゲームでは主人公名を自分の名前に変える(それでヒロインの音声がそこだけ無音になっても)ぐらいには、自己投影をする派でした。そんな自分は大学生の終わりくらいに、「アマガミ」を最後に、学園モノの主人公に全く自己投影できなくなり、あれほどやっていたギャルゲーとラノベから離れていきました。

そんな葛藤を須賀さんは担当していました。「大人になると物事の優先順位を変えられなくなる」と言ってたり、水や立場や心に囚われて、しかし帆高の願いに涙を流す(この涙、僕は憧憬だと思ってますが、解釈は人によるでしょう)須賀さんは間違いなく一番自己投影できるキャラでした。が、そんな彼も帆高のために公務執行妨害をし、お縄についてしまった。まあ帆高のためのお話なので仕方ないですが、須賀さんが遠くに行ってしまったようで少し寂しかった。

さて、帆高と陽菜の運命が世界(といっても東京ですが)の運命と直結しているという意味では、「天気の子」は確かにセカイ系と呼べるのかもしれません。ただ、個人的にはこれは決してセカイ系ではないんですよね。確かにセカイ系たる要件は満たしているのですが、セカイ系を名乗るには、余りにも世界の強度が強過ぎた。

オチの話になってしまいますが、帆高と陽菜が選んだ選択肢故に、東京の半分が3年かけて水没します。レインボーブリッジの橋げた部分が水没するレベルです。が、それでも江戸っ子はめげなかった!!作中のおばあちゃんは「江戸って昔はこんなもんだった、戻っただけよ」と達観してるし、水没した各種交通機関の代わりに水上バスブイブイ走り、桜も咲いてお花見を楽しみにする人もいる。須賀さんも「まあ何とかなってるし、気にすんなよ」とか言ってる。首都機能?経済的損失?そこはセカイ系の例に倣って社会領域を排除・・・単純に尺的に不要だからかもしれないが・・・したのでカット。そして再会した帆高と陽菜。帆高が「大丈夫!」と叫ぶ。タイトルドーン。いやあ、若いねえ・・・とは思ったが、共感や感動は特になかった。新しい日常として処理される「セカイ」は、個人的にはセカイ系の世界とは繋がらないのだ。

そもそも翻弄される運命も天候を左右する謎の存在よりも穂高がたまたま拾った銃とその発砲に依存しており、天候を左右する存在、それへの人柱となる人間の存在もムーに掲載されるオカルトレベルから脱することなく、陽菜の人柱への覚醒も自分で見聞きしたけではなく、人から聞いてという存在感。銃は天気より強し。

さて、銃といえば、ヒロインの陽菜について。お金に困って売春にまで手を染めそうになる、帆高のようなラッキーケースは想定できない状況で、それを邪魔した帆高にキレるのはまあわかるのですが、その帆高が銃をいきなり発砲するような奴としかわからない段階で、「ちょっと言い過ぎた・・・ごめんね」みたいな感じで接してきた上に、二人して銃の存在をコロっと忘れて話を進めていくのは、どうかと思った。日本の東京を舞台にするならば、「拳銃」という存在は、天候を操る謎の存在より重い。それとも、東京って拳銃ぐらい当たり前なのか?東京って怖い場所だなあ・・・。帆高曰く、オモチャと思ってお守りとして持っていた、とのことだが・・・いや、苦しくないかな、それは。実弾がすぐに発射可能な銃とかんしゃく玉鉄砲との違いはさすがに、ね。

そしてヒロインの陽菜自身が何というか、「天気の子」だからキャラクターどうより舞台装置感が強過ぎて、キャラクターとして評価できないという。夏美さんやスーパーショタこと弟の凪のようなキャラクターとしての役割は果たしていたと思う。

と、まあ色々書き連ねてみたが、批判的になってしまった。いや、恋人や友達を気軽に行くには良い映画だと思いますよ。「君の名は」よりは。

その「君の名は」で生乳を飲ませるような新海監督が成分調整された牛乳になった感じがしてましたが、今作はさらに飲みやすい牛乳になったかと思います。

最後に。繰り返しになりますが、これは確かにPS2のギャルゲーで見たようなシナリオだが、こんな綺麗な存在ではなかった。少なくとも、もっとアングラで、ドロドロとしていて。例え劇場版であっても、夏休み中の女子学生と肩を並べて見るような、そんな存在では、僕の中ではないよ、美少女ゲームは。

【追記】

そういえば3年間天候が変わらなかった、ということは少なくとも関東圏で「天気の子」は発生しなかったということになる。ある日、東京の天候が回復した時に。事実を知る帆高と陽菜は、犠牲になった「天気の子」に何を思うのだろうか。