モバマス・リフレッシュルーム”Let's speak English♪♪"全文訳

リフレッシュルームで私の担当のメアリー・コクランが出てきて、しかもバリバリ英語話すので嬉しくなって全文訳をしてみました。意訳、誤訳はあるかもだけど、ご勘弁。

 

志希「あー、終わったー!今年のお仕事はおしまい♪」

ケイト「ええ(Good news=朗報だが、肯定的な相槌として処理)!たくさんの新年の番組で最近忙しかったデス」

メアリー「でもそのおかげで、こんなに可愛い着物を着れたワ♪」「それで、どうかしら?似合っている?(flatter=物が主語で、よく見せるの意。ちなみに英検2級レベルの単語)」

ケイト「ええ、とっても!とても似合ってるワ!」

志希「着物もだけど匂いもいいね♪これは多分・・・桜かな?

メアリー「Exactlly(その通りでございます)♪魅力的な女性は香水を使うものでショ?」

志希「そうだね。・・・それこそケイトみたいにね♪」「ケイトも香水をつけているの?とっても良い匂いがする!」

ケイト「いいえ、香水ではなくて。このカメリア(椿のこと)ですネ」

メアリー「ということは、本物の花?とても美しいワ!」

ケイト「ありがトウ♪ところで・・・裕子はどこに?」

裕子「みなさーん!」

裕子「裕子です!イエーイ!」

メアリー「裕子、遅いわね。何かあったノ?」

裕子「はい、大きな出来事がありました!そこでセールをやっていて、沢山のお餅が売っていたんです!」

ケイト「ああ、なるほど。お餅のバーゲンセールを見つけたのですネ?」

裕子「その通り!マイサイキック・デスティニー!(翻訳不能)とてもイッパーイ買いました!」

志希「それで、沢山お餅を買ったと・・・それで、その手のものは・・・?」

裕子「鏡餅です!私のサイキックを封じ込めました!プロデューサーにあげるつもりです!」

メアリー「それはいいわネ!日本のお餅は私も大好きよ」

ケイト「私もデス。日本の文化はとても興味深いですネ!」

「例えば、大晦日に鐘をつくこととか・・・あと日本料理も!(all the special dishes=おせち料理の可能性もあります)」

志希「うん、異なる文化の比較は面白いよね~。その起源を追うのも」

裕子「うん、うん、うん!とても面白いですよね!」

志希「ところで、ケイトはお休みの間は何するの?イギリスに帰るのかな?」

ケイト「いいえ、日本にいまス。実は、家族が日本に来るんデス♪」

メアリー「本当!?良かったわネ、ケイト♪」

ケイト「ありがとう、メアリー。日本の新年を一緒に楽しみたいと思いまス♪」「私の家族は外国の文化が好きで、例えば、時々ロンドンの中華街に一緒に行ったりするんですヨ」

裕子「おお、中華街!とても面白い!ドンチャン、ドンチャン(翻訳不可)」

志希「そういうので面白い話といえば・・・留学中に見た大きな花火もかなー」

メアリー「私の故郷にもあったワ!大晦日は毎年花火とパーティーがあったのヨ」「パパとママが時々連れて行ってくれたワ。ちょっと懐かしいわネ♪」

ケイト「メアリーの国(region=地域)では他に風習はあったのですカ?」

メアリー「ええ!12時ちょうどに隣の人キスするのヨ。私もやったことあるワ♪」

裕子「キ、キキ、キス!?メアリーちゃんのすごいスクープです!あわわわわ・・・!」

メアリー「もちろんよ、いつもパパやママ、シスターとしてたけどネ♪」

志希「いいねえ、日本ではしないのかしら?」

ケイト「・・・あ、すいません!空港に行かないト!もうすぐ家族が到着するのデス」

メアリー「それじゃ、私も行こうかしラ。私の着物姿の写真を家族と話すノ!(famillyとはないが、文脈的に対象は家族と思われる)」

志希「私も行かなきゃ。今年中にやっておきたい実験が何個かあるんだよね♪」

裕子「私もです!プロデューサーを探します!・・・はっ!これは日本語!」

ケイト「裕子、あともう少しデスよ♪みんなと話せて良かったワ」

メアリー「次会うのは来年かしら?ちょっと寂しいわネ・・・」

裕子「問題ありません!新年はあっという間に来ますよ!ああっ、これも日本語だ~っ!!」

志希「まーまー、最後までノっていって♪じゃあ・・・お元気で、風邪を引かないようにね!」

全員「よいお年を♪」

 

英語を話すメアリー・コクランいいよね

残された手札がジョーカーならば、ゲームは上がれない 〜映画「ジョーカー」感想〜

" 酒が人をアカンようにするのではなく、その人が元々アカン人だというのを酒が暴く"


いつか聞いた格言だ。切っ掛けそのものに善悪はなく、切っ掛けによって現れるものが悪性であるのだ。では、「元々」とは?誰しもが悪性を抱えている。悪性がない人間がいるとするならば、その存在そのものが悪性だ。切っ掛けはそこら中に転がっている。個人と社会、富む者と貧する者、才能がある者とない者、運が良い者もない者、出会いに恵まれていた者と恵まれなかった者。どの天秤が崩れても、どれもが欠けても、人は誰しも"彼"に陥る。鍛え上げた肉体もなく、目からビームも出ず、古代の英雄の血を引くものでもない。ただ我慢することをやめた、一人の男に。


映画「ジョーカー」を見た。公開前から色々と騒がれ、あのダークナイトに並ぶ傑物が出たと話題の映画を。言ってしまえば、一人の冴えない男が不運と生まれの不幸を知り、追い詰められ、誰からも助けてもらえず、我慢をやめた。それだけの映画だ。

ただ、"それだけ"なのが、我々は彼の着地点を知ってしまってるが故に、どうそこに行き着くかを期待してしまう。ピエロを見るかのように。そこを丹念に、アーサーの手札をどんどん奪っていく。仕事、母親、コメディアンへの憧れ。彼を繋ぎとめていた手札はどんどん捨て札となる。そして最後に残ったのがジョーカーのカード。切り札ではあるが、それが残ってしまうと、もう上がりはない。ただ、それが人生だ。スヌーピーも言っていただろう、"配られたカードで勝負するしかない"って。そのカードが捨て札とジョーカーしかなかった。"それだけ"だ。


さて、映画の話であるが、現代社会がどうとかは置いといて、一人のヴィランの誕生の物語として、これだけの映画を提供した、というのは確かにアメコミ映画史上に残ることである(ニワカの私が言うのはおこがましいかもしれないが)。逆に言えば、ジョーカーはやっとダークナイトから解放されて、"今後数年のジョーカー像と引き換えに"新たなジョーカーを打ち立てることに成功した。そういう話なので、バットマンの過去作を漁る必要はないが、ゴッサムシティやブルースという少年が気になったら近年のバットマン作品を見てみるのも良いかもしれない。


最初に悪性の話をしたが、感情移入をさせないためか、問題提起のためか、アーサー自体に問題があるようにしている。彼の手札からジョーカーが浮上したのは、偶々手に入れた拳銃の存在だが、それこそ最初の酒の格言に通じる。彼は善人ではない。我慢しているだけだ。その蓋を、拳銃という"力"がまずこじ開けた。それから拳銃に関わるミスで仕事を失い、拳銃で初めての殺人を犯す。アーサーの段階が進むたびに、たった一丁の拳銃がその存在を強く主張するのだ。……話はそれるが、天気の子の拳銃の使い方がド下手だったために、たった一丁の拳銃の重みを、治安最悪のゴッサムシティで、銃社会アメリカで表現できるのかと驚いたのだ。


劇中ではこれでもかというぐらい、"病的な"笑いが登場する。では、「彼」が、本当に笑った時はいつか?それは最後にあるコメディアンを撃ち殺した時だ。彼の人生に初めて愉快なオチがついた瞬間。それから彼は、本当の笑いが混ざるようになった。あの瞬間、アーサーとジョーカーの垣根は消え、二人は溶け合ったのだと思う。そして最後、パトカーの上で、熱狂した民衆に囲まれて、彼はアーサーではなく、完全にジョーカーとして目覚めたのだ。"この口の傷の話"が結実した、あの瞬間のための映画といっても過言ではない。


そしてラストシーンは本当に感心した。病棟で人殺しをしたジョーカーが職員に追いかけられるシーン。続く廊下の向こうのT字路が"まるでコマ割りのように"。愉快に職員とジョーカーが追いかけっこ。アメコミだ。これはアメコミなんだ。そう、我々をまるでアメコミの枠を超えた映画から、原点に回帰させたのだ。そして、The END。コメディはオチが大事だが、これ以上ないオチだったと思う。


いや、長くなった。コメディアンといえばウォッチメンあいつだよねとか書きたいが、まあいいだろう。別世界のジョーカーが戦ってるし。ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。ジョーカー、面白い映画とは言い難いですが、傑作ですよ。




「再演」の結実 〜ミリオンライブSSA公演2日目感想〜

所恵美役の藤井ゆきよさんは最後のコメントでこう仰いました。


"これは個人戦ではなく団体戦"


"トチっても仲間が助けてくれる"


僕が今回の再演を見て感じたことを、ゆきよさんが簡潔かつ全部言ってくれました。


団体戦なのでソロ曲はありません。ただ、イルミネーションが可能なユニットが二つもあり、そのユニットが再演で集う。なら、例外としてソロ曲を歌おう。ただし、そのユニットの皆で。フェスタ・イルミネーションを。フェスタとはお祭りの意味で、まさに巡り合わせの曲と言える。ちゃんとまつり姫にも花を持たせる気遣いも忘れない。


トチっても、とゆきよさんは仰っていましたが、彼女が演じた夜想令嬢は、SSAという舞台を得て、そして再演という機会を得て、さらなる進化を遂げていました。トチるだなんてとんでもない、そう思える程の。


2日目はSSAという舞台を、特に地方公演にはなかった花道を上手く利用していたと思う。夜想令嬢の昏い旅路を行く朋花を上手く表現して、カメラワークもバッチリで、これはLVでちゃんと見れて良かったなと思った。花道をアンドロイドらしく機械的に歩くEscape、仲良く手を繋ぐシャルシャロ、元気よくかける未来。再演の舞台、SSAだからこそ表現できたことだ。


1人も手放さない。それはこのミリオンライブの信条の一つだ。それはゲームの中で、機会均等を目指すものだと思っていた。しかし、この団体戦を完璧に完遂した今、それだけではない。手放さないどころか、全員が硬く手を握り合って、一つの大きな目標を完遂させることでもあったのだ。それはゲームコンテンツのライブとかそういうの飛び越えて、人間的に美しい。昨日も書いたが、声優さんには脱帽して頭が下がるばかりである。


ただ、そんな声優さんが我々あってこそと繰り返し、プロデュースお願いしますという。商業的なこととかは置いといて、素直に応援したくなる。その真っ直ぐな思いまで斜に構えたくはない。


話が逸れた気がする。とにかく、ミリオンライブのゲームを越えた素晴らしさを実感し、応援を続けたくなる2日間だった。では、締めの言葉として担当の島原エレナだけではなく、ミリオンライブ全てにこれを送りたい。


"出会ってくれて、ありがとう"


「再演」の意味 〜ミリオンライブ SSA公演1日目感想〜

ミリオンライブ 6thのHPには、こうある。

"単独タイプ別で地方を巡ったユニットたちの再演が決定!"

そう、SSA公演は再演、Reactなのだ。我々ファンが望んだ再集合だけではなく、演者さんの方々にとっても、「もう一度」だった。

セトリ自体は地方ツアー時をほとんど踏襲していた。一部のユニットを除き、カバー曲も同じであった。もちろん、地方ツアー時は出会うことのなかった夢の共演、アライブファクター等のサプライズも用意されており、flyersも披露され、とても満足のいくライブであった。しかし、セトリを踏襲した意味気付いたのは、自分の担当である島原エレナを演じる角元明日香さんの言葉だった。

気付いてはいたのだ。Cleaskyがカバーする「笑って」の時の、角元さんの演技が、CleaskyのドラマCD内に登場する島原エレナではなく、本来の島原エレナに寄せていたことに。特に笑うところは、そのまんまアイドルの島原エレナであったと言っていい。そんな角元さんが2回目ということで、プレッシャーからある程度解放され、自由に演じることにしたとコメントした時に、この公演の意味に気付いたのだ。 

再演は、何も同じ事を繰り返すのではない。1回目があった以上、ミリオンの声優の方々はそれぞれに思ったことがあり、本来ならいつ来るかわからない次の歌唱の時の宿題があったのだ。このSpecialな公演は、その宿題を果たす機会だったのだ。我々が望み、アイドルを演じる声優さんかこれに応える。これがアイドルマスターだった。

個人的にジュリア役の愛美さんが、飄々と(?)語ってはいたが、そのプレッシャーがとても大きく、しかし静香役の田所あずざさんのおかげで自由になれたと語っていたことが驚きだった。同時に今回はアコースティックをしなかった理由もわかった。何もプレッシャーだけではない。Jelly pop beansはサプライズ返しという再演を見せたし、和太鼓やタップダンスの方々との連携も発展させていた。

ちなみに一番私の涙腺に来たのは、絶対に泣く印象があった、戸田めぐみさんが最後まで涙を我慢したことである。

今回の公演は、もちろん尊みもあり、素晴らしさもあり、最高もあった。しかし思うに、それはプロフェッショナルの方々がプロフェッショナルの仕事を完遂した、当然の結果である。ミリオンライブの声優さんへの尊敬の念が深まるライブだった。そして彼女達の同僚を超えた仲間という関係に、畏敬の念を覚えた。

明日は2日目。明日はどんな"再演"を見せてくれるのだろう。楽しみである。

最後に。野々原茜役の小笠原早紀さんの復帰に感謝を。貴女のfruity loveが聴けて良かった。貴女なしでは成立しない再演でした。

あの時プレイした美少女ゲームはこんなに「綺麗」だったのか? ~「天気の子」感想~

新作『天気の子』は、天候の調和が狂っていく時代に、運命に翻弄される少年と少女が自らの生き方を「選択」するストーリー。 映画『天気の子』公式サイトより

 ゼロ年代美少女ゲームの残り香のようなストーリーだと聞いた。葉鍵やロミオなどの、美少女ゲーム全盛期にリアルタイムで触れた世代ならば、PS2ドリームキャストで発売された、コンシューマ美少女ゲームをやっていた世代ならば、胸を打つものがある内容だと聞いた。だから、見に行きました。「天気の子」。

 

確かに主人公の帆高と、ヒロインの陽菜の前には数々の「選択肢」が現れ、

バーサーカーイリヤに殺されるエンド並に多そうな「帆高実家帰還エンド」や

ONEの「右に行く」「左に行く」並にノーヒントな上に、どちらでもよさそうなクイックセーブ必須の「銃を撃つ」「銃を撃たない」という選択肢、

2周目でいきなり「夏美の就活を手伝う」とかの選択肢が現れ、未読スキップが止まってビックリしそうな夏美ルート、

FDでファンの声に応えて追加された上に一番万事解決してしまう凪ルート、

等々、事前情報もあって、色々と見えましたよ。確かに美少女ゲームチックといえば、まさにその通りでした。そしてこの記事を書くために公式サイトを覗いたら、それらの美少女ゲームメソッドがポピュラライズされた文言が出てきたわけです。で、思わず引用したわけです。

映像作品としては見事でした。さすがと言うべき美麗な東京の景観と雨の表現が、素敵なBGMを伴って110分流された。それが、「天気の子」です。

それは、楽しくて美しくはあったが綺麗ではない記憶が、さも綺麗な顔して再演される居心地の悪い、気味の悪い時間でした。

自分にとって美少女ゲームとは後ろめたい記憶でもありました。決して人に言うような趣味ではなかったし、親にも何回もそんなゲームやめろと言われました。それでもやってた。ゲームをポンポン買えない学生時代に、手あたり次第買ってやってた。

美少女ゲームは、そのほとんどが「学園モノ」、つまり青春モノです。作中の帆高のような、とにかく真っ直ぐで、キラキラしていて、甘酸っぱい恋。当人以外には、作中の刑事のように舌打ちの一つでもしたくなるような恋。

そう、当人以外では舌打ちしたくなるような恋故に、これは昔やった美少女ゲームだという話もわかるのです。でも、自分はもうそれは遺産のような記憶で、既に舌打ちしたくなる刑事側になっていた。須賀さんのような「元主人公」でもなく、外縁にいるキャラクターの方に心情が寄る歳なのです。

自分は、美少女ゲームでは主人公名を自分の名前に変える(それでヒロインの音声がそこだけ無音になっても)ぐらいには、自己投影をする派でした。そんな自分は大学生の終わりくらいに、「アマガミ」を最後に、学園モノの主人公に全く自己投影できなくなり、あれほどやっていたギャルゲーとラノベから離れていきました。

そんな葛藤を須賀さんは担当していました。「大人になると物事の優先順位を変えられなくなる」と言ってたり、水や立場や心に囚われて、しかし帆高の願いに涙を流す(この涙、僕は憧憬だと思ってますが、解釈は人によるでしょう)須賀さんは間違いなく一番自己投影できるキャラでした。が、そんな彼も帆高のために公務執行妨害をし、お縄についてしまった。まあ帆高のためのお話なので仕方ないですが、須賀さんが遠くに行ってしまったようで少し寂しかった。

さて、帆高と陽菜の運命が世界(といっても東京ですが)の運命と直結しているという意味では、「天気の子」は確かにセカイ系と呼べるのかもしれません。ただ、個人的にはこれは決してセカイ系ではないんですよね。確かにセカイ系たる要件は満たしているのですが、セカイ系を名乗るには、余りにも世界の強度が強過ぎた。

オチの話になってしまいますが、帆高と陽菜が選んだ選択肢故に、東京の半分が3年かけて水没します。レインボーブリッジの橋げた部分が水没するレベルです。が、それでも江戸っ子はめげなかった!!作中のおばあちゃんは「江戸って昔はこんなもんだった、戻っただけよ」と達観してるし、水没した各種交通機関の代わりに水上バスブイブイ走り、桜も咲いてお花見を楽しみにする人もいる。須賀さんも「まあ何とかなってるし、気にすんなよ」とか言ってる。首都機能?経済的損失?そこはセカイ系の例に倣って社会領域を排除・・・単純に尺的に不要だからかもしれないが・・・したのでカット。そして再会した帆高と陽菜。帆高が「大丈夫!」と叫ぶ。タイトルドーン。いやあ、若いねえ・・・とは思ったが、共感や感動は特になかった。新しい日常として処理される「セカイ」は、個人的にはセカイ系の世界とは繋がらないのだ。

そもそも翻弄される運命も天候を左右する謎の存在よりも穂高がたまたま拾った銃とその発砲に依存しており、天候を左右する存在、それへの人柱となる人間の存在もムーに掲載されるオカルトレベルから脱することなく、陽菜の人柱への覚醒も自分で見聞きしたけではなく、人から聞いてという存在感。銃は天気より強し。

さて、銃といえば、ヒロインの陽菜について。お金に困って売春にまで手を染めそうになる、帆高のようなラッキーケースは想定できない状況で、それを邪魔した帆高にキレるのはまあわかるのですが、その帆高が銃をいきなり発砲するような奴としかわからない段階で、「ちょっと言い過ぎた・・・ごめんね」みたいな感じで接してきた上に、二人して銃の存在をコロっと忘れて話を進めていくのは、どうかと思った。日本の東京を舞台にするならば、「拳銃」という存在は、天候を操る謎の存在より重い。それとも、東京って拳銃ぐらい当たり前なのか?東京って怖い場所だなあ・・・。帆高曰く、オモチャと思ってお守りとして持っていた、とのことだが・・・いや、苦しくないかな、それは。実弾がすぐに発射可能な銃とかんしゃく玉鉄砲との違いはさすがに、ね。

そしてヒロインの陽菜自身が何というか、「天気の子」だからキャラクターどうより舞台装置感が強過ぎて、キャラクターとして評価できないという。夏美さんやスーパーショタこと弟の凪のようなキャラクターとしての役割は果たしていたと思う。

と、まあ色々書き連ねてみたが、批判的になってしまった。いや、恋人や友達を気軽に行くには良い映画だと思いますよ。「君の名は」よりは。

その「君の名は」で生乳を飲ませるような新海監督が成分調整された牛乳になった感じがしてましたが、今作はさらに飲みやすい牛乳になったかと思います。

最後に。繰り返しになりますが、これは確かにPS2のギャルゲーで見たようなシナリオだが、こんな綺麗な存在ではなかった。少なくとも、もっとアングラで、ドロドロとしていて。例え劇場版であっても、夏休み中の女子学生と肩を並べて見るような、そんな存在では、僕の中ではないよ、美少女ゲームは。

【追記】

そういえば3年間天候が変わらなかった、ということは少なくとも関東圏で「天気の子」は発生しなかったということになる。ある日、東京の天候が回復した時に。事実を知る帆高と陽菜は、犠牲になった「天気の子」に何を思うのだろうか。

担当のSSRが来た日

7月26日15時。デレステにおいてSSRメアリー・コクランがピックアップされたガチャが終了した。だからというわけではないが、彼女のSSRについて記事を書こうと思う。

 

7月22日月曜日。ローテーション的にはデレステのガチャ更新にパッションが含まれることは知っていたが、正直期待はしていなかった。二人実装が本格的になってきたとはいえ、メアリーの順番はもっと後、もしかすると今年中には来ずに、トリに近いぐらいになるかもなとさえ思っていた。なので、15時の更新は確認もしていなかった。

夜。仕事を終え、ガチャ更新あったなと何気なくデレステを開く。なるほど、関ちゃんか。ということは、パッションもボイスがある子かな・・・と思っていると、目に飛び込んできたのは、プールサイドで笑う、メアリー。「ヒッ」と息が抜ける音がした。それは「恐れ」だったのかもしれない。ついに来たのだ、その時が。彼女の最初で最後であろうSSRが。

何故このような反応になったか。それは物事をネガティブに考える癖のある自分が辿り着いた一つの考えがあったからだ。それは、「SSRデレステにおける、そのアイドルの墓標となる」という考え。デレマスの環境は厳しい。いちいち例や状況を上げたりはしないが、SSR1枚を与えられるかわからないアイドルがいる世界だ。そういうアイドルにSSRが与えられる時、それは自ずとデレステ世界における、そのアイドルの結論、終着点、完成となる。たった1着の、そのアイドルしか着用できない衣装と共に。それ以上はない。そのアイドルが残した軌跡と結果が刻まれたもの。それは墓標というものだろう。

しかし、メアリー・コクランは担当だ。それが墓標だろうが何だろうが、向き合う覚悟は決めていたし、どんなセリフが、コミュが、衣装が来ようとも、受け止めて愛してあげるぐらいしか自分にはできない。それに、やはり嬉しかったのだ。爆発的な、叫ぶような喜びではない。震えるような、噛み締めるような喜びだったが、嬉しかったのだ。

天井に到達した10連で、お迎えする。ピックアップ特殊演出に浮かぶ、メアリーのサイン。彼女らしい、流麗なアルファベットのサイン。動画でも残したが、この瞬間は忘れないようにしようと思った。一度きりしかない瞬間で、祝福すべき瞬間だったから。

カード名は「レットイットキュート!」。let it cute.

ポイントはherではなくitだということ。herだとメアリー自身で確定するが、itだと例えば有名なlet it beのように、itを何と取るかで解釈が変わる、つまり何が「可愛くなる」かはこちらに委ねている。英語の妙。アメリカ人のメアリーらしいカード名だと思う。

衣装も、自分は初期Rのリファインかなと思っていたら、アメリカ要素を全面に出しつつ、それにアイドルがくわれないまとまったデザインであった。言葉で語るより見てもらった方が早いので、スクショとかを見てもらえると有難い。

特筆すべきはコミュである。特に親愛度コミュ。これはデレステにおいて、そのアイドルとカードの方向性を端的に表すコミュである。あの短文のセリフに、下手なイベントコミュ全話以上の解釈の余地と、情報が敷かれている。故に、ここが素晴らしい出来だったのは本当に嬉しかった。

どれぐらい嬉しかったかというと、前述の墓標だの何だの思考が吹っ飛び、メアリーとまた歩み続けられる未来が見え、そして。

「彼女の担当で本当に良かった」

と思えたぐらい。

このブログにも記事があるが、自分は一回、彼女から逃げ、目を背けてしまった。そうしながら、未練がましいことばかりしていた。周りに励まされ、恥ずかしながら戻ってきた。そんな暗い記憶を持つ自分の前に、

”アタシから目を離さないで”

”どんなアタシでも、きっとダーリンに見せてあげるからネ”

”・・・大好きよ、マイダーリン”

と言ってくれる彼女は、墓標なんかじゃない。新しい道であり、未来であり、福音だった。

もう少し頑張ろうと思った。メアリーがいる世界は厳しい世界だが、まだ彼女は消えたわけではない。自分も目を離したわけではない。

彼女に関わる日々が、足跡になっていくのだろう。それがすぐ消えてしまっても、足跡は確かに刻まれたのだ。

最後に、この言葉を持って記事を〆させていただく。

 

「出会ってくれて、ありがとう」

 

 

 

キングオブモンスターズ ~アメリカ全力パンチの怪獣映画~

ゴジラ キングオブモンスターズ(以下KOM)、早速見てきました。その感想の記事となります。ネタバレです。未鑑賞の方は今すぐブラウザを閉じて映画館へGO。

 

 

 

 

さて、まずは。

最高。もう本当にこれ。

予告編での期待値を遥かに超える面白さでした。

GODZILLA」、「髑髏島の巨神」を経た今作で、ハリウッド版ゴジラ(というか、モンスターバース)は一つの到達点に達したと断言できます。

当たり前ですが、これはアメリカが作ったゴジラです。ここが重要なのです。良くも悪くもアメリカらしい怪獣への対応と家族ドラマを経た「GODZILLA」。第二次世界大戦からベトナム戦争へ至るアメリカと、その同盟国日本が過ごした戦争の時代の中で、その中で生まれる狂気とロマンを怪獣と上手く融合させた「髑髏島の巨神」。そして今作KOMに至り、ついに日本が生み出した怪獣ゴジラへのリスペクトと、米国が持つ世界観と呼ぶべきものが、怒涛のスケールで融合し・・・これは個人的な感想ですが、虚淵ゴジラ三部作で割合絶望的な気分になっていた日本人の僕の顔面を殴り飛ばしてきたのです。

最初のシーンは「GODZILLA」のサンフランシスコである家族を起こった悲劇・・・かと思いきや、同作であれ程勿体ぶっていたゴジラの咆哮をいきなり流し、ビルを破壊するゴジラが登場します。このシーンだけで「家族ドラマと怪獣映画の配分はこんな感じだからな?」というメッセージを感じさせます。

GODZILLA」でゴジラが暴れまわったので世界には巨大生物(タイタン)がいることを知った人類。タイタンですよ、タイタン。もう神様じゃないですか。世界各地に眠る巨大生物は確認されているものの(ちなみに富士山にも一匹いたりする)、その存在は隠ぺいされ、ゴジラも行方不明。人々は一部の人を除いて、「あんなものがいるのはわかっているのに、どこにいるかもいつ現れるかもわからない」という不安感が包む世界になっています。

そんな中、サンフランシスコで息子を失ったエマ博士が「オルカ」という周波数を分析して怪獣の行動をある程度自由にコントロールできる装置を開発します。オルカ、これはシャチの学名として有名ですが、元の意味は冥界という意味です。シャチはイルカの仲間なので、鳴き声で意思疎通をはかるので、そこから命名したのでしょうが、彼女の執念が生み出した機械の神ともいえましょう。そんな彼女は怪獣に息子を殺され、その意味を考えた結果、「怪獣は地球環境のバランスを司る使いであり、目覚めさせることによって、早々に人類によって破滅を迎える地球を救う」でした。要するに彼女は息子は神への贄となった、その犠牲を無駄に自分はしてはいけないと信じ込むことで自分を救おうとしたのですね。彼女にとって怪獣は使徒だったのです。途中までは。

そんな彼女の元夫、マークが息子の失ったことから逃避を選び、自分が作ったオルカのプロトタイプも破壊、ゴジラへの憎悪を抱えながら独り身で過ごしていたことを考えると、対極的な道を選んでいるわけですね。

残された娘のマディソンはその間で葛藤し、翻弄されるのですが、怪獣のコントロールに失敗し、息子を失った意味の探求と破滅願望を混在させている母親を見て、オルカを母親以上に上手く利用し、人が作った機械神の主となるのです。豪雨の中でギドラとゴジラのマッチメイクをした時に見せた壮絶な笑みはまさにその証拠、子供であろうが「人類という獣(モンスター)」でありうるのです。そんな彼女もオルカが破壊され、その力の失った後は家族で住んでいた家へ戻り、そこを破壊の余波が襲うと子供らしく絶叫する・・・。

さて、この一家が今作の主人公ですが、もう一人、語らねばならない人物がいます。芹沢博士です。

初代ゴジラにてゴジラと運命を共にしたあまりにも有名な人物の名前を持つ彼には、今作にて最高の出番が用意されています。僕はその流れのシーンは涙が止まりませんでした。隣の外国人を驚かせてしまったようですが。

そのシーンとは、もうおわかりですね。そう、ゴジラとの心中です。ギドラとゴジラを一網打尽にするために海上で戦い2匹に「オキシジェン・デストロイヤー」という米軍の新兵器が投入されます。同じ名前の強い爆弾、とかではなくマジで酸素破壊装置です。酸素に呼吸を依存する生物なら例外なく死にます。が、ゴジラを活動停止に追い込むも、ギドラには通用せず。逆にゴジラが活動停止したことにより「王」がギドラとなり、世界各地で怪獣が暴れだす事態に。活動停止により死んだと思われていたゴジラを発見した芹沢博士たちでしたが、パワー注入するための核兵器が作動せず誰かがゴジラをところまで行って手動で作動させることに。そこで芹沢博士が潜水艇に乗り込み、X星人の服にも見えるような、あの潜水服にも見えるような、絶妙なデザインの恰好をしてゴジラの元へ。というか、潜水艇というか完全に人間魚雷「桜花」でしたね。

ゴジラが眠る場所への階段を上る芹沢博士。放射線数値はとうに限界を超え、目はかすみ身体の動きは鈍る。まるでそれはゴルゴダの丘へ至る救世主のような、痛々しくも荘厳な画でした。「オキシジェン・デストロイヤー」によって発生した事態が芹沢博士をゴジラの元へ導き、神の受難を挟み、そして彼は”日本語”で”あのセリフ”を語り掛け、ゴジラに初めて触れながら光の中へ消えていくのです。「神よ、なぜ見捨てたもうたのですが」なんて言いません。ゴジラも骨にはなりません。人と神だった関係が、その瞬間だけ対等な、そう、「友」となったのです。このシーン考えた人、天才でしょ?

キリスト教世界観との素晴らしい融合。このシーンだけで、この映画はゴジラシリーズの中でもぶっちぎりで名を刻む名作であると、僕は言いたい。

そんな気合注入でゴリマッチョになったゴジラはギドラとの最終決戦へ。初戦と違い、優勢に戦いを進めていきます。ギドラといえば、「オキシジェン・デストロイヤー」が通用しない、つまりそれは酸素に依存しない生物・・・地球外生命体ということになるというのは、上手いと思いました。X星人要素ですね。

ゴジラが活動停止している間に、ギドラが拠点としていたワシントンDCでの人類の総力戦、それだけで映画作れそうなレベルでしたが、描写は少なかったですね。まあ、怪獣映画だから仕方ない。しかし、ホワイトハウス以上に連邦議事堂ってランドマークとして優秀な建物ですよね。首都にあるといい、東京タワーのアメリカ版というべきか。

さて、最終決戦なのでギドラも都市の電力を吸い上げて放出する最強技を放ち、ゴジラを追い詰めます。そこで予告編にも登場したバーニングゴジラがついに登場。芹沢博士の気合注入が凄すぎて暴走気味でメルトダウンしそうだったのが、少し前にエネルギーを吸われてていい感じになったようです。ついにバーニング熱線が!?と思ってたら、エネルギー放射の方でした。そっち!?いや、VSシリーズでよく使ったから嬉しいけど!

と、その圧倒的な力でギドラを倒したと思ったら世界各地の怪獣がゴジラを取り囲む。おっ、怪獣総進撃か?と思ったら、怪獣たちはゴジラにかしずく。

そう、「王の帰還」である。キングオブモンスターは、そこにいるのだ。

 

・・・とまあ、こんな感じです。シン・ゴジラ現代日本が生みだした「リアルなゴジラ」なら、この作品のゴジラゴジラが好きな人間がすべてのゴジラ作品にリスペクトしつつアメリカ人的な価値観を元に再構成・・・好き放題やった「ファンタジーゴジラ」といえましょう。

シン・ゴジラが怪獣映画としてどうかはともかく、作品としては東日本大震災を経た、リアルな災害を見てしまった日本に、必要な作品だったと思います。庵野監督のメンタル的にも。

アメリカはキリスト教価値観の国であり、同時に世界最高峰のエンターテイメントの国です。その宗教的な構図、面白いものを全力で作るマネーとパワーがある国。そんな場所でゴジラが大好きな人間たちが作った、超強烈なストレート全力パンチがこの作品です。

まあ、そういうことは抜きにして、怪獣映画で面白い作品に久々に出会えました。感謝を。