模造刀のような作品 ~映画「るろうに剣心 The FINAL」感想~

見に行ってきました、映画るろうに剣心 The FINAL。あの人誅編を映像化、過去作が実写化の成功例として挙げられるシリーズ、そして自分が好きな漫画ということで、期待値を上げ過ぎたのもありますが、それにしても個人的には駄作と言わざるを得ません。

とはいえ、何から何までクソなわけではもちろんなく、アクションは素晴らしいです。原作の技を取り込んでいるところもあり、おっと思わせるところもあります。

しかし、個人的に褒められるのがアクションだけ、というのは、特に人誅編の映像化にあたっては、ダメなのです。

まず二部構成について。The FINALとThe Beginningという2作で構成されるということを知った時、自分はこう思いました。最後が前で、最初を後に公開する。これには意味がある、と。つまり、「最後」、薫の死と、剣心の精神的な死。この終わりを前編の最初に持ってきて、「最初」、剣心の再起と最初の一歩を踏み出す…このような2部構成なのだろうな、と思っていました。しかしまあ、FINALを見た感じだとBeginning、単なる過去編になりそうなんですよね。例え、ただの過去編にはしないとしても、FINALで全ての決着をつけ過ぎて、蛇足にしかならない。何故このような構成にしたのか?自分にはさっぱりわからない。

そして、映像化のツケはやはりこのシリーズにも回ってきました。カイジか何かで、「ツケは一番つらい時に払わねばならなくなる」という言葉がありましたが、その通りでこの最終作で今まで実写化だから、映像化だから、で見逃していた原作との乖離や問題点が浮き彫りになってしまったのです。一言でいえば、仲間とのつながりの薄さ。人誅編は剣心が一人で過去を清算する話ではありません。神谷道場に来てから培った人脈や仲間の助けにより、剣心一人では抱えきれなくなった罪を、剣心と共に生きる人々と共に救いに帰る話なのです。だから、今まで登場したキャラクターにもう一度焦点を当てる。バトルは少なめなのに、原作の長さが京都編と同じぐらいになるのはやむなしなのです。それなのに、ただの結局タンク兼かませになってしまった左之助、翁を殺してしまったせいで何故頭になってるかわからん蒼紫(しかも割合すぐ離脱)…一応、そこから操が頭の名代になる流れは短い時間ながら評価できるのですが…、出てきて二重スパイやったあげく雑に死ぬ十本刀の張、それにハメられるわ剣心との決着にこだわらないせいで警官隊と右往左往しているだけの斎藤、ほぼヒーラーだった恵、マジで何がしたいのかわからない中途半端な扱いな弥彦、そして何より過去編がダイジェストだった上に原作ほど剣心に積極的ではない上に殺されなく誘拐されるだけの薫。

特に、弥彦と薫の線の弱さは致命的です。人誅編は薫が剣心と物語を共にする話であり、弥彦への継承の話なのです。そこを中途半端に描いたせいで、ドラマが破綻しており、ドラマパートが全く楽しくない。原作でこうだったから…、実写化において敢えて再構成した…とか脳内補完しながら見てましたが、それでも面白くはないし、擁護もできない。

そりゃあ、原作でも皆の協力を借りながら縁との最終決戦しますよ。でも人誅編の最終決戦はるろうに剣心という作品の総決算であり、「俺に任せて先に行け!」みたいな陳腐な最終決戦じゃないんだよ。そもそも、その仲間もどこから来たの?って感じだし。なので、最終決戦における剣心の過去との向き合い方には重点は置かれず、単純に縁と凶行と復讐を止めるだけになってます。それなのに、中途半端に原作のセリフを引用するもんだからイライラしかしない。「剣と心を賭して この闘いの人生を完遂する!」というセリフがついぞなかった時は、もう絶望感で頭がクラクラしました。だってこれ原作の答えなんですよ?まあ、剣心の迷いを適当に描いたツケですかね、これも。

あと細かいこと言えば、「俺が守りたかったものは」で終わった縁のセリフ、「俺が唯一守りたかったものは既に貴様に…貴様に奪い取られている!」まで続くから好きなんですよ。喪失の悲しみから立ち直り、守るべきものを得て、再び歩みだした剣心にはこの上ないキツい言葉なんですよ。それを縁の敗北への悔しさがあふれ出した…みたいに中途半端に使われても。あ、縁といえば、縁を演じられた新田真剣佑さんの熱演は素晴らしかったです。口調、目の動き、アクション、身体作り…何から何まで、素晴らしかったです。

さて。この映画のラストは巴への墓参りで終わるのですが。原作通り、「ありがとう」「済まない」「さようなら」と巴に告げたという剣心のセリフで終わるのですが、これも前述の2部構成の不可解さから、あまり響かない。ここで剣心が巴に別れを告げ、薫と共に歩む重さを演出したいなら、余計に過去編を先に見せるべきでは…?

というわけで、原作そのままを求めるのは酷だと知りつつ、それでも駄作だと言わざるを得ない今作。まるで姿形だけを模して、飾り立てることに特化し、本来の使用用途では全く使えない模造刀のような作品である今作。残念です。Beginningどうしようかなあ…。まあ、ここまで付き合ったよしみ、一応見に行く予定ですが…。

 

 

 

少年よ、神話になれ ~シン・エヴァンゲリオン感想~

仕事が早めに終わったのと、不慮のネタバレを食らう前に見ておこうと、シン・エヴァンゲリオン見に行ってきました。その感想になります。

 

まず、今作は「ロボットアニメ」とすれば新劇場版において過去最低となります。しかし、「エヴァンゲリオンの最終作」とすれば及第点といった作品です。

ロボットアニメとしての面白さをほとんど(完全にではない)放棄し、とにかく「エヴァンゲリオン」というTVアニメから新劇場版まで綿々と続く作品に終止符を打つための、エヴァンゲリオンという作品を追いかけてきた(言い方を変えれば囚われた)人々を解放するための作品です。

少し前、「大人になれよ」という言葉で炎上した作品がありましたが、今作は「大人になったんだよ」とこちらに優しく投げかけてくれる作品です。

劇中のシンジ君も「どうしてみんな自分にこんなに優しいんだ」と嗚咽交じりに吐き出していましたが、今作はともかく優しさが根底に存在していたように感じます。人の善意とも言うべきでしょうか。他者への無理解、不審、恐怖、押し付け。エヴァンゲリオンの世界、というか碇シンジの世界はそれらに満ちていて、そこからどうにかして脱出しようとして、結局アスカとさえそれらを解消できなかったのが、TVアニメと劇場版、そして新劇場版Qでした。

 

自分がしてしまったことは、自分で落とし前をつける。

劇中で強調されていたように、大人になるということはどういうことかという点で、これが示されます。自分がしてしまったことに嘆くばかりのQを終えた後のシンジ。そんなシンジが自分がしてしまったこと(ニアサード)の落とし前をつけるのです。とはいえ、14歳のシンジにそれを押し付けるのは…と思うのですが、そこでニアサードの世界を生き残ったトウジら旧友の存在がそれを補完します。ニアサード後の世界の、悪夢のような世界で生き残るためにトウジ達は子供ではいられなかった、大人になるしかなかった。人には言えないようなこともした。その落とし前、贖罪のために、トウジらは生存者のコミュニティで頑張って生きていた。落とし前をつけるために、シンジも大人にならなければならない…ただ、シンジは既にエヴァに乗って世界のため十分に戦った。シンジは普通の人としてコミュニティで生きていく選択(モラトリアム)もできる…が、黒波の崩壊が彼に喪失を思い出させると共に覚悟を決めさせます。コミュニティで人間性を得ていく黒波の崩壊。もう、こんなことは終わりにしなければならない。その首魁である父親と話をしなければならない。母親のクローンの死が、シンジの最後のモラトリアムを終わらせた。

メタ的にいえば、これはちゃんとエヴァンゲリオンを終わらせる。Qという問題作を作りながら、長い時間エヴァンゲリオンを放置した落とし前をつける、という庵野監督の決意だと感じました。だから、お話の転換点として、黒波というQを象徴する存在の崩壊は必要だったのです。同時に、人間性を得るという序、破の綾波との決別をも図ります。そして、”ちゃんと言葉でお別れをする”という一歩進むことのできた黒波の姿が、物語を、シンジを今まで誰も見たことがない一歩進んだ場所に入る入口となるのです。

 

大人になれない僕らの強がりをひとつ聞いてくれ ~「カサブタ」より~

自分がエヴァンゲリオンを初めて見たのは、ちょうどシンジと同じぐらいの歳にVHSをレンタルしてきて、でした。それが今ではゲンドウに近い年齢になってしまいました。碇ゲンドウ。たった一つの願いのために、世界を巻き込んだ男。大人であるが故に、それを身勝手とされ、息子に否定されることになった男。大人になる、とは言いますが、大人になったなんて自覚はそうそう訪れるものでもありません。大人である振りをしながら、自分の子供の部分と折り合いをつけている、というのが、この年齢になって嫌でもわかった個人的な所感です。一見合理的で冷静な大人であるように見えながら、内心を吐露するシーンになったゲンドウは、まるで迷子の子供のようでした。自分の社会不適応を認識しながら、折り合いをつけられずに生きていたある日、シンジの母親であるユイと出会う。自分しかいない暗い世界に差し込む光明であり、大人になれる扉かもしれなかったユイは、消えてしまった。残された自分は、ユイを取り戻すという妄念に取りつかれた子供であり、そんな子供が子供の世話などできるはずもなく、ユイの残したシンジさえ、遠ざけてしまった。いや、正直そんなこと告白する親父の姿なんて見せられても、息子としてはどうすりゃいいんだよ、と思った自分はまあ、親不孝者なのでしょう。シンジは出来た息子なので、そんな父に優しい言葉をかけるのです。

そんなゲンドウも旧劇とは違い、父親として「すまなかった」とシンジに言うことができ、失ったユイを今自分と向き合ってくれるシンジにユイを見出し、去っていきました。

 

「生きろ」

まあ色々あってシンジは世界の再構成を行い、エヴァンゲリオンのない世界(今までの学園エヴァとかと違う、エヴァンゲリオンの要素が欠片もない世界)を構築することにします。その中で、旧劇のオマージュを行いながら、旧劇を清算していきます。今までのエヴァンゲリオンの要素は特撮の舞台装置のような一つ下の次元の要素となり、各キャラクターがエヴァンゲリオンに押し付けられていた”設定”から解放されて退場していきます。なので、実はこの作品の予習に必要なのは、新劇ではなく、旧劇です。旧劇をオマージュし続けることにより、まるでLCL化のように、旧劇を初めて見た時から抱いていた複雑な感情が、溶けていくのです。

新しい創世(Neon Genesis)後の世界は、まるで現実世界で。彼等は、そして彼等を見てきた私達の世界が溶け合って、重なり、映画は終わります。その世界を誰もが明日に向かい生きていく…。エヴァンゲリオンという物語を終わらせるには、もう現実とオーバーラップさせ、「はい、エヴァンゲリオンはこれで終劇!こいつらもお前ら明日を生きろ!」と、旧劇の「みんな死んでしまえばいいのに…」をブチ壊して終わります。長かったなあ、ここまで。というか、もののけ姫宮崎駿監督が出した答えに、庵野監督なりに回答できたのかなあ、と考えたら、Qからここまでの時間も無駄ではなかったのかな、と思ったりもしました。

 

かくして、エヴァンゲリオンは終わり、大人になった我々がシンジに重ねていた「少年」は、テーゼから神話となったのでした。

市川雛菜は迷わない ~【♡LOG】市川雛菜コミュ感想~

 

 し-あわせ〔-あわせ〕【幸せ/仕合(わ)せ/倖せ】

1.運がよいこと。また、そのさま。幸福。幸運。

2.その人にとって望ましいこと。不満がないこと。

3.めぐり合わせ。運命。

4.運がよくなること。うまい具合にいくこと。

5.物事のやり方。また、事の次第。

ーgoo辞書よりー

 市川雛菜というキャラクターにおいて、一番のキーワードといえば「しあわせ」である。自分が「しあわせ」だと判断するものに従って生きる。そんな少女だ。その自由奔放なようで、芯の通った生き方が好きで、シャニマスにおいて担当に一番近い位置にいる。しかし、同時に怖くもあった。あまりにも強固なその判断基準のバックボーンが見えなかったからだ。浅倉透のジャングルジムの想い出のような存在があれば、まだ彼女の得体の知れなさも払拭できただろうに、と思ったものだ。故に、新しいSSRのコミュでその辺りの何かが見えれば、と思っていた。

結論から言えば、自分は杞憂を抱いていただけであり、市川雛菜という女の子に、彼女が出す魅力に、集中していれば良かったのだ。雛菜も言っていたじゃないか、自分に集中してくれって。

以下、コミュの感想と結論。

〇CAM:P

雛菜が事務所の部屋を案内するライブ配信をするコミュ。カメラマンがプロデューサーということでcam(カメラの略語。配信するという意味もある)とP(プロデューサー)をコロン(:)で接続している。

寄せられるコメントを読んでいきながら、配信自体は無事終わる。その中に「雛菜の部屋も見たい」というコメントもあり、プロデューサーは次回配信の案として出す。しかし、雛菜は意図的にそのコメントは無視し、読み上げてもいなかった。

お願いされたからって何でもやらない。自分ができることで、”やりたいことだけ”。

そういう雛菜にリクエストに応えたいというプロデューサー。雛菜はこう返す。

”言いたいことが言えて、やりたいことができるのとおんなじぐらい、言いたくないことを言わなくてよくて、やりたくないことをやらなくていいのも、大事でしょ?

このセリフを見た時、雛菜に感じていた得体の知れなさが見えてきた。自分は彼女の目指す場所がわからなかった。個性が掴めなかった。違ったのだ。彼女に個性はない。あるのは基準だったのだ。最初からずっと提示されていた「しあわせ」という絶対基準が。それでも、アイドルという期待に応え、それが美徳とされている仕事で、「期待に応えること」と「期待に応えないこと」をここまで同列にできるのが信じられなくて、目を逸らしていたのだ。

しかし、個性を超える基準によって生きる人間、それは機械じゃないのか?

雛菜は流れる数多くのコメントから、当たり前のように「そうでないもの」を選別して、切り捨てている。プロデューサーにそれを凄いことだと指摘さて、初めて気づくくらいに。

タイトルのコロンは強調の意味を持つ。カメラという機材を持つのは確かにプロデューサーだ。しかし、”機械である”のは、果たしてそれだけなのだろうか…?

ちなみに、cameraの語源はラテン語の「部屋」という意味の単語である。

〇O/R

同日にバッティングした2つの仕事を、雛菜に選ばせたら即決したというコミュ。どちらの仕事にも可能性を感じるプロデューサーが悩んだ末に雛菜の意見を求めた、という流れ。余りの決断の速さに驚くプロデューサーに、雛菜は

”いっぱい時間をかければ、ちゃんと考えたことになるの?”

と返す。確かに時間をかえて考えればいいというものでもない。しかし、二つの同質のモノを提示された時に即決できるのは、”事前に答えが決まっている時”か”自分の中で絶対的な基準があるか”のどちらかの時だ。

”ちゃんと考えて選んだから、明日になったとしても、雛菜は変わらないよ。雛菜がすっごくしあわせ~って思える方を選ぶんだもん。……そんなの、すぐにわかるよ”

このセリフから、彼女はずっとこういう選択を繰り返してきたことがわかる。他者からすれば、考えていないと思われるほどに高速化できるまで。コンピュータが最適化され、高速化するように。

タイトルのO/Rは英単語の”or”からだろうが、コンピュータ用語にO/Rマッピングというのがある。雑に言うとデータベースを現実に即して概念化(オブジェクト化)する際の橋渡しをするもののことである(間違ってたら申し訳ない)。つまり、プロデューサーから見たら二つの仕事はデータベース化され、それぞれの魅力が表のように並列に並べられているが、雛菜か見たら二つの仕事はオブジェクト化、つまり「しあわせ」という基準に概念化されたのだ。その齟齬を埋め合わせるコミュだから、わざわざOとRの間にスラッシュを入れたのである。

〇CuddleToy

和訳すると、玩具を(愛情をもって)抱きしめる。このSSRで最重要のコミュ。

ユアクマというキャラクターのカフェの仕事の方をを受けることにした雛菜のコミュ。

”雛菜がすきだな~って思うものを、すきだな~って言うのがお仕事で、それってすごい幸せだよね~”

これまで人間というより機械じゃないか?と思わせてきた市川雛菜の「魅力」がここにある。彼女の判断基準は機械のような揺るがなさでも、それが出す結果は、確かに人をしあわせ~にするものなのだ。そして、彼女はその結果を出すのに迷いがない。自分が好きで、可愛いと思うものをそう訴えるのに迷いがない。自身があるとかないじゃなく、迷いがないのだ。それは、アイドルの適正としては最上のものなのではないだろうか?

ユアクマちゃんは最初は余り受け入れられなかったキャラクターで、コラボカフェも他のキャラクターに遅れて初めてらしい。プロデューサーに雛菜に似ているというが、本当にそうである。

”こうやって見ると、かわいいもんな”

というプロデューサーの言葉は果たしてユアクマちゃんに向けられたものか、それとも。

〇RedBomb!

選ばなかったもう一つの仕事がお料理系であることがわかるコミュ。タイトルの赤い爆弾とは、雛菜が電子レンジで誤って爆発させたミニトマトのことである。

プロデューサーが頑張ってお料理系のお仕事もできることになったのだが、雛菜はその仕事も即決する。もちろん雛菜は「しあわせ」な方を選んだだけである。雛菜は以前の配信で取り上げはしなかったものの、料理をしているところを見たいというコメントを覚えていて、それを叶えばしあわせだよねと言ってくれた。雛菜は、その時は絶対的な基準によって選別したコメントも、それは消去しているわけではなく、彼女の判断基準に叶えば、どんな小さなこともピックアップしてくれるのだ。それは、アイドルの適正として得難いものだろう。

〇project;or

TureEndのコミュ。事務所のソファにユアクマちゃんグッズを並べる雛菜。視聴者の要望を受けて、今回の配信はユアクマちゃんグッズの紹介だという。

"雛菜が楽しくしあわせにやったことを見て、ほんとにちゃんと誰かが楽しくなったりしてるみたいだから、すごいよね”

タイトルのセミコロンは、接続の意味で使用される。市川雛菜のor(選択、あるいはプログラミング言語でいうOR演算子)の結果は、こうして投影(project)されているのだ。彼女が自分の選択をし続けても、彼女が「しあわせ」と思ったことを伝えるのに迷いがない限り、それは素敵な結果として出力されるだろう。それが、市川雛菜の魅力なのだ。そこにAでもBでもいい、値の入力してあげるのが、プロデューサーの仕事なのかもしれない。

〇市川雛菜は迷わない

迷いがないというというのは、真っすぐなことではない。迷った末に通過する道こそが最短でも、迷いがなければ、その分岐点の前に自分が信じた遠回りの道を進んでしまうのだ。

”雛菜の「楽しい」って「楽をする」という意味じゃないだろ?”

共通コミュ「take the cake!」より。雛菜さえ気づいてなかったこの事実が、全てなのかもしれない。自由奔放、協調性がない。そうかもしれない。あまりにも掴みどころがない。私がそう思っていたように、そう思われるのかもしれない。

しかし、彼女はいつでも選択し続けている。迷わず、明るく。その結果、彼女が映し出したものを見れば、彼女が好きになれることだろう。

彼女は、wingに優勝すると、こう言ってくれる。

”……ちょっとぐらいなら、大変なこと、あってもいいよ”

迷いがない彼女の「大変なこと」、やっとわかった気がするのだ。それは彼女の選択の障害や対立になることではなく、彼女の選択の中で、変数Xになることなのだ。市川雛菜一人ではできなかったこと、選べなかったこと。それを叶えてあげる変数。ここまで来ると、プロデューサーとアイドルとの関係性としては普遍的なものになる。

 

さて、最後にもう一度言おう。市川雛菜は、迷わない。何処かを彷徨っている迷いは、プロデューサーが引き受ければいい。

 

 

樋口円香ソロ「夢見鳥」感想

今回はいつかやろうかなと思っていた樋口円香のソロ曲「夢見鳥」の感想の記事です。

ガチ考察勢のような洗練された考察ができる能力も知識量もありませんので、あくまで感想、ということで。

 

 

〇夢見鳥

まず夢見鳥というタイトル。これは蝶の別名であり、由来は胡蝶の夢という故事から。

あの夢が現実なのか、この現実が誰かの夢なのか。有名なアレです。

”境界が曖昧な世界で生きる”というのは樋口円香の命題なのかもしれません。

「東洋からはるばると
わたしの庭にうつされたイチョウの葉は賢い者のこころをよろこばせる
深い意味をもっている。
これはもともと一枚の葉が二つに分かれたのでしょう?
それとも二枚の葉が互いに相手を見つけて
ひとつになったのでしょうか?

このようなことを思っているうち
わたしはこの葉の本当の意味が分かったと思いました。
あなたはわたしの歌を聴くたびにお感じになりませんか
わたしが一枚でありながら
あなたと結ばれた二ひらのはであることを・・・。

かのギンコ・ビローバの実装時に話題になったゲーテの「銀杏の葉」より。

夢と現実、一枚と二枚。それは本当は同質の存在であるのに、主観で分かたれてるだけの存在なのではないか。しかし、それを確かめる術はなく。もちろん、彼女にもわからない。

〇ヒカリの行き先

背の高いビルの間に ひっそり咲いてる花たち
なんだか寄り添うように 小さな光に照らされていた
踏み出すことで何かが 壊れてしまうこともある
綺麗なものにはきっと 棘が付いているから

ひっそり咲いている花たち、というのはノクチルのことなのは間違いないでしょう。

では、小さな光とは。最初はプロデューサーのことかと思いました。要するにプロデュースという光を浴びせるということですね。しかし、その発想が樋口円香にぐちゃぐちゃに引き裂かれてしまえばいいと言わしめた、樋口円香がプロデューサーから感じ取れてしまう傲慢さではないかと思い至る。

小さな光は、ノクチルのメンバーといる時の彼女と、その時間でしょう。青春時代という短い時間の、さらにその1ページ。その光から踏み出すことで壊れてしまうものは、当然あります。では、踏み出した先は何処なのか?それは、”背の高いビル”です。

つまり、背の高いビルは、芸能界であり、プロデューサーでもあるのです。おそらく、それらには摩天楼の光のような、小さな光ではない、眩い、とても綺麗な光がある。

しかし、樋口円香は”当たり前の”危機感を持つ。そんな綺麗なものには棘がある。本来、花にあるべきでビルにはないはずの、棘が。

そんな世界に踏み出すべきだったのか、踏み出してしまったのか。小さな光と摩天楼の光の境界が曖昧になった彼女には、もう知る術はありません。

〇世界を変えていく炎

確かなことなんてないよね 人の景色もこの気持ちも
その中で見つけた温もりだけ 心にそっと閉じ込めた…

今日がまた 訪れる それは儚い夢のよう
不思議と 高鳴る胸に 悪くない気がしたんだ

そんな曖昧な、確かなものがないと彼女が思う世界で、見つけた温かさ。”心にそっと閉じ込めた”というのが彼女らしいと思います。ギンコ・ビローバの記事で言及しましたが、彼女は”言葉に出すこと”を特別視している節があります。同時に、言葉に出さないことも同じぐらいに。”大切なものだから、口にはしない”のです。

そんな毎日でも、儚い夢のような日々でも、一歩踏み出した世界でも、不思議と高鳴る胸…心の炎を、彼女は悪くなく思っているようです。彼女が浅倉透ではない理由で、アイドルを続けている理由の一つなのかもしれないですね。

〇幸せのルール

ぼんやり眺めた空は どこまで続いてるのかな?
もう少し あと少しだけ 遠くを見たくなった
希望を持てば傷は消えて 痛みに慣れることもなくて
その中で出会える優しさなら なんてね… ふいに呟いた

シャニマスのテーマである”空”が登場。この空がアイドルの世界だとすれば、ぼんやりながらも先が気になる世界…という彼女らしいスタンスとなります。ただ、そんな希望を持てば何だって乗り越えられる!わけでもなく、希望を持って歩いたからこそ負う傷や痛みだってあるのです。だって、棘のある方向に歩みだしたのだから。ただ、だからこそ出会える優しさ…木漏れ日の光のようなしあわせ~幸福な存在があるのならば…?

それを”なんてね”と曖昧化させる言葉で示す。しかしそれは呟いているので、紛れもなく樋口円香にとって言葉に出すべき、漏らしてしまう程の所感でもあるのです。

ギンコ・ビローバでも”たぶんね”という言葉が重要なコミュがありましたが、言葉を曖昧にさせる、この手の言葉は、樋口円香のセリフにおいて重要な要素なのかもしれないですね。

〇夢咲きアフターアイドル

今日がまた 過ぎてゆく オレンジ色に染まる街
どうして? 見慣れたはずの 夕陽がやけに眩しい

何ができるの? この小さな羽で飛べるの?
わからない それでも 信じてみたい

重ねた 手のひらに 今さら言葉はいらない
帰ろう 私の場所へ 暖かい陽だまりへと

きみといる陽だまりへと

凛世「夕日でございます…」円香「毎日毎日飽きもせずね 昇って沈む」

凛世とのホーム会話より。カラカラカラのSSRでも夕日を眺めていましたし、彼女にとって夕日とは繰り返す毎日の象徴であり、それでも毎日見てしまう存在なのかもしれません。そんな見慣れた夕日の光が、眩しい。それは彼女自身の変化なのでしょうか、それとも彼女を取り巻く世界の変化なのでしょうか。それを知る術を、彼女は持ちません。

”小さな羽”。wing、featherのCDタイトルを出すまでもなく、羽はシャニマスにおいて重要な要素です。空がアイドルの世界である以上は翼や羽はそこへ向かう可能性です。翼ではなく、羽としたのは、これがノクチルではなく、樋口円香自身の可能性へのスタンスだからでしょう。

さて、最後。重ねた手のひらは誰のものなのか?帰る”私の場所”とは?”きみ”とは?

一つ言えることは…プレイヤー(プロデューサー)としては複雑ですが、”私の場所”や”きみ”はプロデューサーの存在ではないだろうな、ということです。最初に花を照らしていた小さな光も、樋口円香が踏み出した先で出会えた優しさも、暖かい陽だまりではあります。しかし、帰ろうと言っている以上は、元居た場所である前者のことでしょう。

いつか、ノクチルや樋口円香というアイドルの日没が来た時でも。”きみ”という曖昧な存在がいる、あの青春に帰ることができるのならば。アイドルも楽しい夢であったと、帰ったその先もまた、楽しい夢になるのかもしれない。そんな、彼女の終点をソロ曲の最後に持ってきたのかもしれません。

 

〇最後に

ギンコ・ビローバのコミュ読んで。

ここまでお読みいただきありがとうございました。

個人的な2020アイマス振り返り

今年もあと数時間で終わる。コロナ元年とも言える今年は、多くの人にとって悪い年であったのだろう。個人的には、自分にも家族にもコロナの影響は少なく、そこは幸運だったと感じる一年であった。まあ、それはいいとして、タイトル通りに個人的な視点で今年のアイマスを振り返る。

 

〇ミリオンライブ(ミリシタ)

まず嫌な話からしよう。正直なことを言うと、ミリオンライブ及びミリシタの今年の動きは、褒められたものではないと思う。

自分の担当である、島原エレナに関してはとても活躍できた年と言える。ミリシタの新カードも素晴らしいものだったし、グッズも多く出た。絶対的Perfomerも、エレナにピッタリの曲だと思う。

しかし、それ以外の、彼女を取り巻く環境はどうか。コロナの影響で7thライブが中止になる、リリイベができなくなる等は仕方ない。バグや不具合も仕方ないだろう。パチンコ化は…複雑な気持ちではあるが、まあそういうこともあろう。自分は打ちに行くつもりは全くないが。問題は、そのリカバーである。過去のライブの再放送や、5月の終わりに特別生配信をしたことは評価できる。7thライブの代替としてミリオンライブ全体で可能な限りのリカバーをしたと思う。しかし、それ以降の動きがあまりにも鈍重だと感じた。鈍重というか、デジシタとかいう悪く言えばMV垂れ流しの放送をしただけである。アイマス内でさえ、24時間生放送やMusicDawnの大きく打って出たリカバーがあったのに、だ。MTWシリーズがMTGシリーズに比べて個人的にピンとくる曲が少なかったのもあり、去年と比較するとモチベはかなり下がった年だった。

ただ、感謝祭も決まったことだし、来年のミリオンライブの動きに期待したい。

シャニマス

ノクチルの追加と、そこに所属する市川雛菜との出会い。これが今年のシャニマスだった。やっと担当をしてみたいな、と思う娘に出会えたのだ。とはいえ、市川雛菜というキャラクターを個人的にはまだ掴めてないので、担当をしてみたい、に留まっている。現在出ているコミュ(出てくるもの全部に目を通したわけではないが)を見る限り、「しあわせ」を原点をして、ゆるふわに生きる透先輩大好きウーマンといった感じだが、見えてくるのが「それしかない」のが逆に怖い。どんなキャラクターにだって表裏あるものだが、市川雛菜には現状、表しかないように感じる。”裏を覗いてやろうと裏側に戻ったら、何故かそちらも表側だった”みたいな。

コミュといえば、このブログにも記事を作るぐらいには樋口円香のコミュは衝撃的だった。アイマスで、あんな感情の発露をするキャラクターが出るとは、流石に思っていなかった。

無観客ライブであるMusicDawnも素晴らしかったと思う。無観客という慣れない状況で、最高のパフォーマンス、最善の演出をしてくれたように思う。配信でライブを見るという、コロナ禍の中で主流となっていく状況に道を開けた、まさに夜明けの名にふさわしいイベントであった。

来年のシャニマスには、おそらく市川雛菜の限定SSRのそれ付随するコミュでの研究、ソロ曲CDというこれ以上ないキャラクターの掘り下げ、そしてライブも既に決定しており、羽ばたきが失われることはないように思う。期待している。

モバマス

規模縮小が始まってから初めての一年となったが、予想通りに厳しい状況となった。前の記事でも触れたように、デレマス、そしてモバマスは特に今年のVAでボイスを得たアイドルに活路を見出しており、バックアップもかなり手厚く行った。そして彼女達はそれに応えて、順調にシンデレラへの階段を上っているように思う。

その一方で、自分の担当であるメアリー・コクランの新規カードをついぞ出なかった。故に振り返りもクソもないのだが、来年ももしかするとこの状況のままかもしれないと思うと、今から暗澹たる気持ちとなる。

とはいえ、一個人にできることなぞもうない。一応下手な絵をTwitterに上げ続けたが、それも自己満足でしかない。残されたのは祈りだけ。来年こそ、モバマスで幸ありますように、と。

デレステ

こちらでは新規カードがあった。今までにないメアリー・コクランを描いたカードであり、かなり満足いくものだった。同時に謎ピックアップガチャの"I am Lady"をテーマにしたガチャも開催され、そこに選ばれたことはとても嬉しかった。それが6月の半ばのことで、それから半年、それだけを胸の灯りにして、メアリー・コクランに関わってきた。ボイスなしアイドルにもSSR二周目が来ているが、個人的にはメアリーのそれには期待しないでいる。SSRが一枚あるだけでも御の字なのだ。サプボされる位置にもいないだろうし、年一回出番があればいいな、とここでもまた、祈るだけなのである。

〇まとめ

振り返るとハッキリすることだが、妙に乾いてしまったアイマスの一年であった。以前に大晦日に心が折れた記事を書いた時のような感情の機微が少なかった。それは悟りなのか、諦めなのか。まあ、どちらでもいいことだ。自分には見届けたい担当がいる。それだけなのだから。

来年は、担当にとって良い年になりますように。

特に、厳しい状況にいるメアリー・コクランというキャラクターに幸ある年になりますように。

Livin' on a prayer.

 

 

シンデレラガールズ9周年生放送の雑記

シンデレラガールズ9周年。それに伴い、生放送が放送された。普段は(基本的に担当に関係がないこともあって)この手の放送は見ないのだが、今回は何となく全部見てしまったので思ったことを書いていく。

 

見れば誰しもが思うことかもしれないが、シンデレラガールズというコンテンツは所謂”新アイドル”への世代交代を推進し、”新アイドル”にこれから数年をかけているんだな、ということを強烈に打ち出した放送だった。途中の茶番企画や山形まで行った気合の入ったロケ、歌唱曲がおねシンとBrandnewだけだったこと。今までこのコンテンツを支えていたニュージェネ達はサポートに回り、まるで壮大な新人歓迎会のようであったこと。そしてシンデレラマスターの新弾発表。選出された3人全てが”新アイドル”だったこと。賛否両論あったと思う”新アイドル”だったが、周年放送という場でここまでされると、もはや一つの事実として受け入れるしかないだろう。コーラの飲めばゲップが出てくるぐらいの事実として、だ。

 

では、今までのアイドル達は?特に、自分の担当もそうである、ボイスがないことでイベントへの参加権等が限られ、厳しい状況にいると言わざるを得ないアイドル達は?切り捨てもされず、ただ一年に一回あるかどうかわからない出番を待つだけのアイドル達はどうするのか。運営としても周年放送にその娘達を出さないのはマズいと思ったのだろうか、全員登場のPVを最初に公開し、最後のおねシンで背景の映像に全員のデレステモデルを出してくれた。それ自体は感謝している。しかし、こうも思うのだ。”ここで出したのだから、いいだろう?”というメッセージではないかと。生放送の最初と最後に配置した、というのがまたそういう意図を感じさせるのだ。

 

さて、事実として受け入れる、とは前述したが、それだと嫌々受け入れたみたいだから補足しておく。発表当時はともかく、もう個人的には”新アイドル”達に負の感情はない。これからのシンデレラガールズを担っていく存在として、頑張って欲しいと思う。自分の担当の境遇とは全く別の次元に行ってしまったし、彼女達の担当プロデューサーとはもう見ている世界も違うだろう。状況が全く違うアイドルが同じコンテンツにいる世界で、そこで感情を波立てていては、身が持たない。ボイスがないアイドルがボイスを得た瞬間、その担当と未だにボイスがないアイドルの担当では、もう見える,見ている世界が違う。そんな場所だから。

自分は”新アイドル”を遠目に眺めながら、ただ担当アイドルに良いことがあるのを願うしかないのだ。シンデレラガールズに関わり始めた時から、結局することは何も変わらない。今日の生放送のおねシンで、背景に全員分のデレステモデルが登場した時、シンデレラガールズに積極的に関わろうと思い始めた切っ掛けを思い出した。4thライブ神戸の時だ。同じように背景に映る彼女を見て、背景だけではなく、いつか声優さんがステージに立ち、彼女の歌を歌うのを見てみたい。そのために自分の力でできることはないか、そう思ったのだ。もう、その時のような激情は残ってないし、それが夢物語になりつつあるのも理解している。

その時から、随分と時が流れた。4年だ。生放送で大橋彩香さんが9年間とは義務教育の期間、とその時間の長さのわかりやすい例を示してくれていたが、そのうちの4年、小学生だった子が、高校生になっている。それだけの時間が流れた。ただ、その歳月の中で、自分の担当アイドルは常に輝きを見せてくれた。そんな彼女を捨てて離れることは、結局できなかった。だから無様に、未練たらしく、まだ関わっている。

 

そんな最低な私の担当の、最高のアイドル、メアリー・コクラン。ありがとう、大好きだ。そして、君がいる世界の9周年、おめでとう。

 

つまらない話

Twitterで言うことでもないので、こちらに書くことにした。夜の冷え込みと孤独感に耐えきれなくなった男の、つまらない話だ。

 

人生で「本気」になった記憶がない。

 

頑張った、程度ならあるが心身を削って何か大事に挑むような…そんな「本気」になったことがない。誰もがあるであろう、進学や就職、学業や仕事…そこで何かにひたむきになったという記憶が。

いつでも自分にできることしかやってこなかったし、したいことしかしてこなかった。自分にできないと思ったことからは背を向け、逃げてきたし、したくないことは避けていた。幸い、自分には良い両親と家庭環境、いくつかの偶然と幸運があって、個人的に許容できる範疇での普通の暮らしとやらはできている。それもいつまで続くかわからないが。

まあ、それはどうでもいい。切っ掛けはTwitterで今日のMOR(アイマスのラジオ)が自分が一応担当を名乗らせていただいている、島原エレナに関する放送があったらしいことを知ったことだ。らしい、というのはTLの表面的な情報だけしか拾ってないからだ。それ以上追うこともせずに、こんな駄文を書いているし、聞き逃し放送も聞く気はなかった。そんな自分の冷たさに絶望して、一日も終わろうとしている時間に珍しくもブログを書いているわけである。

Twitterで自分のツイートをどれだけの人が見ているかは知らないし、意識的に追っている人なんで恐らくいないだろうけど、追っていれば今年に入ってミリオンライブに対する言及が明らかに減り、なおかつ簡素になっていることに気づいているのかもしれない。去年でフィーバーし過ぎた、コロナの影響でライブが中止になり、モチベーションを保つ機会を逸していた、というのもあるが、そんなことは言い訳に過ぎない。去年に比べれば明らかに熱量が落ちているのは自覚している。

では、代わりに他のことに熱量が向かったのかというと、そんなこともない。アニメ、ゲームなんてもう殆ど追っていないし、ソシャゲもアイマス関係とFGOしかやっていない。そのFGOも課金額の割には自分の運のなさのせいで大した戦力でもなく、かけた金額に辟易しながら惰性に続ける日々。プラモやフィギュアももう以前ほどは追っていない。

ではアイマス関係は?というと、ミリオンライブに関しては上記の通りで、シャイニーカラーズはノクチル関係で少し力の注ぐ気にはなったものの、まだ片手間の域は脱していない。

シンデレラガールズに関しては、供給が少ない担当の出番が来れば嬉しいし、一応ほぼ毎日担当の絵を上げさせていただいてる。反応もいただいてありがたい限りだが、それも熱意をもってやっているのか、惰性で、「やめたら二度とやらなくなる」という恐怖心から続けているのかわからない。ボイスなし、で一括りにするのは大変失礼であることはわかっているが、担当と同じボイスなしのアイドルのほぼ単推しである人でも自分とは違って熱意をもって頑張っている人がいる。憧れもするし、尊敬もするが、自分もそこまでの熱意をもってやろうという気はない…実際に行動していないから、熱意がないのだろう。つまり、相対的に見ても全然本気ではないのだ。ちなみにそんな感じでやっているからか、絵は全然上手くなっていない。まあ、当然だろう。

そもシンデレラガールズの担当の出番が来て喜んでいる、つまり熱意が心に多少で燃えている自分は、単に飢餓感から喜んでいるのか、純粋に担当の出番を祝福しているかかどうかも、もう自信がない。仮定として、担当にボイスがあり、出番もそれなりにあったとして、今のように担当を推せるかというと、それも自信がない。

人生の話なのかアイマスの話なのかどっちなんだよ、って感じではあるが、ここ数年は彼女達をメインとしてきたのだから仕方ない。それに、それ以外のことでわざわざネットの海に流したいようなプライベートなことなんてない。

12時を過ぎた。シンデレラも帰る時間だ。自分もこんな駄文を書いているのではなく、寝るとしよう。ここまで読んでいただいた方、ありがとうございました。それと、時間を無駄にさせて申し訳ない。